「は」を含む故事・ことわざ・慣用句
「は」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 1814 件
馬には乗ってみよ人には添うてみよ(うまにはのってみよひとにはそうてみよ)
何事も経験してみなければわからないということ。 いい馬かどうかはその馬に乗ってみないとわからないし、人間の善し悪しも付き合ってみなければわからないことから。 「人には添うてみよ馬には乗ってみよ」ともいう。
生まれたあとの早め薬(うまれたあとのはやめぐすり)
時機に間に合わず、何の役にも立たないことのたとえ。 赤ん坊が生まれた後で、出産を促す薬を飲むとの意から。
馬を水辺につれていけても水を飲ませることはできない(うまをみずべにつれていけてもみずをのませることはできない)
その気のない人間は、周囲がいくら心配したり気をもんだりしても無駄であるというたとえ。
海魚腹から川魚背から(うみうおはらからかわうおせから)
海の魚は腹から、川の魚は背から裂くのがよいということ。
海の事は漁師に問え(うみのことはりょうしにとえ)
その道のことは、その道の専門家に相談するのが最善の方法だということ。
埋もれ木に花咲く(うもれぎにはなさく)
長い間不運だった人に意外な幸運が訪れることのたとえ。また、世間から忘れ去られていた人が再び脚光を浴びて世に出ることのたとえ。 土の中に埋もれていた木に花が咲くとの意から。
裏には裏がある(うらにはうらがある)
物事の裏面には、表面からわからない複雑な事情が入り組んでいるということ。
売られた喧嘩は買わねばならぬ(うられたけんかはかわねばならぬ)
自分の身に危険が迫ってくれば、それを防がなければならないというたとえ。
瓜の皮は大名に剝かせよ、柿の皮は乞食に剝かせよ(うりのかわはだいみょうにむかせよ、かきのかわはこじきにむかせよ)
瓜の皮は厚くむき、柿の皮は薄くむいたほうがおいしいということ。 大名は大まかなので瓜の皮を厚くむかせる時に適し、貧乏な乞食は柿の皮を薄くむかせる時に適しているとの意から。
瓜の蔓に茄子は生らぬ(うりのつるになすびはならぬ)
一つの原因からは、それ相応の結果しか生まれないということ。また、平凡な親からは、非凡な子どもは生まれないということのたとえ。
売り物には花を飾れ(うりものにははなをかざれ)
商品は中身の良さだけでなく、見た目もきれいに飾って売るのが商売のこつだということ。
漆は剝げても生地は剝げぬ(うるしははげてもきじははげぬ)
人の持って生まれた素質は変わることはないというたとえ。 漆器の表面の漆は剝げ落ちても、下の生地は剝げることはないことから。
浮気と乞食はやめられぬ(うわきとこじきはやめられぬ)
悪い習慣はあらためにくいということ。 浮気も乞食も一度味をしめたらやめられないとの意から。 「浮気」と「乞食」の「き」を語呂合わせしたもの。
噂は遠くから(うわさはとおくから)
噂は事情を知っている人間からではなく、外部から生じることが多いということ。
上前を撥ねる(うわまえをはねる)
人に取り次いで渡す金銭の一部を、不当に自分のものにすること。 「上前」は「上米(うわまい)」が変化した語とされる。
運は天にあり(うんはてんにあり)
人の運命は天命によるもので、人力ではどうにもできないということ。
運は寝て待て(うんはねてまて)
運は天が定めることだから、焦らず気長に待つほうがよいということ。
運用の妙は一心に存す(うんようのみょうはいっしんにそんす)
何事もその機能をうまく活用するためには、それを用いる人の心ひとつにかかるということ。
運を待つは死を待つに等し(うんをまつはしをまつにひとし)
努力せずに、ただ幸運を待っているのは、自らの死を待つように愚かなことだということ。
枝は枯れても根は残る(えだはかれてもねはのこる)
災いや悪事を根絶するのは難しいということ。 たとえ枝は枯れても、根は土の中に残っているとの意から。
枝を矯めて花を散らす(えだをためてはなをちらす)
小さな欠点にこだわって、かえって大事な部分をなくしてしまうことのたとえ。
得手勝手は向こうには効かない(えてかってはむこうにはきかない)
自分の都合のいいように振る舞っても、なかなか相手が応じてはくれないということ。
得手に鼻つく(えてにはなつく)
得意なことだと、つい気が緩んで失敗するというたとえ。
江戸っ子は五月の鯉の吹き流し(えどっこはさつきのこいのふきながし)
江戸っ子は口は悪いが気性はさっぱりとしていて、物事にこだわらないということ。また、口先ばかり威勢がよくて意気地がないということ。「吹き流し」は、鯉のぼりのことで、吹き抜けで腹の中が空洞になっていることから。「口先ばかりで腸なし」と続けてもいう。
江戸っ子は宵越しの銭は使わぬ(えどっこはよいごしのぜにはつかわぬ)
江戸っ子はその日に稼いだお金はその日のうちに使ってしまうということ。江戸っ子の気前のよさを自慢して言った言葉。
江戸は八百八町、大坂は八百八橋(えどははっぴゃくやちょう、おおさかははっぴゃくやばし)
江戸は町の数が多く、大阪には橋が多くて、どちらも町並みが広くにぎわっているということ。「八百八」は実数ではなく、数の多さを表す。
榎の実は生らば生れ木は椋の木(えのみはならばなれきはむくのき)
道理にかなっていなくても主張を曲げないこと、また強情で人の意見に従わないことのたとえ。 榎の木を椋の木と誤り、榎の実が生った後も椋の木だと言い張ることから。 「椋の木の下にて榎の実を拾う」「椋は生っても木は榎」ともいう。
鰓が張る(えらがはる)
人のあごの部分が角張っていること。 「鰓(えら)」は魚など水生動物の呼吸器官で、人のあごを魚のえらに見立てた比喩的な表現。
遠水は近火を救わず(えんすいはきんかをすくわず)
遠くにあるものは、緊急時には役に立たないということ。 遠くにある水は、近くの火事を消すのには役に立たないとの意から。
縁と浮き世は末を待て(えんとうきよはすえをまて)
良縁と好機は、自然に訪れるまで気長に待つのがよいということ。
豌豆は日陰でもはじける(えんどうはひかげでもはじける)
だれでも年頃になると、男女の情に目覚めるということ。また、事が成るにはそれなりの時間が必要であり、その時がくれば自然に達せられるということ。 日陰で育った豌豆も時期がくれば実が熟してはじけるとの意から。
縁なき衆生は度し難し(えんなきしゅじょうはどしがたし)
人の忠告を聞き入れようとしない者は、救いようがないということ。 「縁」は、ここでは仏縁の意。 「衆生」は、仏が慈悲を垂れる人間。 「度す」は、悟りを開かせること。 仏縁のない者は、たとえ仏でも救いようがないとの意から。
縁の切れ目は子で繋ぐ(えんのきれめはこでつなぐ)
夫婦仲がうまくいかなくなっても、子どもがいれば縁をつなぎとめてくれるということ。
縁の目には霧が降る(えんのめにはきりがふる)
縁によって結ばれる者は、互いの欠点が見えにくく、美点ばかりが目につくというたとえ。 霧が降ると物が見えにくくなることから。
縁は異なもの、味なもの(えんはいなもの、あじなもの)
男女の縁というものは、どこでどう結ばれるかわからず、予測のつかない不思議でおもしろいものだということ。「縁は異なもの」「縁は味なもの」と切り離してもいう。
煙幕を張る(えんまくをはる)
真意を悟られないように、曖昧な言い方をしたり、問題をすり替えたりしてごまかすこと。
遠慮は無沙汰(えんりょはぶさた)
遠慮もほどほどにしないと、かえって失礼になるということ。 先方に遠慮して訪問や連絡を控えすぎると、長期間付き合いが途絶えることとなり、かえって礼を欠くことになるとの意から。 「遠慮が無沙汰」ともいう。
老い木に花咲く(おいきにはなさく)
老木に再び花が咲くように、一度衰えたものが再び盛んになることのたとえ。 「枯れ木に花咲く」ともいう。 また単に「老い木に花」や「枯れ木に花」ともいう。
老い木は曲がらぬ(おいきはまがらぬ)
老人の頑固さのたとえ。 また、欠点は若いうちになおさないと年をとってからでは手遅れであるということ。 老木は弾力性に乏しく曲げようとしても曲がらないことから。
お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ(おいしゃさまでもくさつのゆでもほれたやまいはなおりゃせぬ)
恋の病は、医者の出す薬や温泉でも治せないというたとえ。 「草津」は「有馬」ともいう。
老いたる馬は道を忘れず(おいたるうまはみちをわすれず)
経験を積んだ人は方針を誤らないというたとえ。 老馬はいろいろな道を知っており、迷うことがないということから。 中国、斉の桓公が山中で道に迷った時に、老馬の歩みに従って無事に帰り着いたという故事から。
老いては子に従え(おいてはこにしたがえ)
年をとったら出しゃばらずに、何事も子どもに任せて従っていくほうがいいということ。
老いてはますます壮んなるべし(おいてはますますさかんなるべし)
年老いてもますます元気で意気盛んでなければならないということ。
王は君臨すれども統治せず(おうはくんりんすれどもとうちせず)
国王は君主として国を治めているが政治には直接かかわらないこと。 18世紀イギリスの政治体制に由来する言葉。 「王は君臨すれども統治せず」ともいう。
大嘘はつくとも小嘘はつくな(おおうそはつくともこうそはつくな)
誰も信用しなような大きな嘘はついても害が少ないが、小さな嘘は真偽がわかりにくく、人が信じ込む恐れがあるので、ついてはいけないということ。
大きい薬缶は沸きが遅い(おおきいやかんはわきがおそい)
大人物は大成するのに時間がかかるというたとえ。大きい薬缶は水がたくさん入るので沸騰するのに時間がかかるということから。
大きな家には大きな風(おおきないえにはおおきなかぜ)
人にはそれぞれの境遇に合った悩みがあるということ。 金持ちは何の心配もないように見えるが、家が大きければ、それなりに風当たりが強く、金持ちなりの悩みがあるとの意から。
大鍋の底は撫でても三杯(おおなべのそこはなでてもさんばい)
規模が大きいものは、何から何まで大きくてたいしたものだということ。 大きな鍋は底に残ったものを集めても碗に三杯分はあるという意味から。
起きて働く果報者(おきてはたらくかほうもの)
健康で働けることは、何よりも幸せだということ。「果報者」は幸運な人の意。
起きて半畳、寝て一畳(おきてはんじょう、ねていちじょう)
人間は必要以上の豊かさをもとめても仕方ないということ。どんなに大きな家に住んでいようと、人一人が必要とする広さは、起きている時は半畳、寝る時も一畳あればすむということから。
奥歯に物が挟まったよう(おくばにものがはさまったよう)
思ったことを率直に言わず、何か隠しているようですっきりしないようす。
奥歯に物が挟まる(おくばにものがはさまる)
思っていることを率直に言わず、曖昧な表現をすること。
屋漏に愧じず(おくろうにはじず)
たとえ人が見ていない場所でも、人に知られて恥じるような行いはしないということ。「屋漏」は家の一番奥まった所、または人目につかない所の意。
驕る平家は久しからず(おごるへいけはひさしからず)
驕り高ぶって滅亡した平家のように、贅沢を尽くし勝手気ままにふるまう者は、長く栄えることなく早く滅びてしまうというたとえ。
奢る者は心常に貧し(おごるものはこころつねにまずし)
贅沢な生活を好む者は、満足することを知らず、満たされずに常に不平不満の気持ちを持ち続け、その心は貧しいということ。
教うるは学ぶの半ば(おしうるはまなぶのなかば)
人に教えるということは、自分の知識をより深めなければならないから、半分は自分の勉強になるということ。
遅い助けは助けにならぬ(おそいたすけはたすけにならぬ)
時機を逸しては、せっかくの助勢も役に立たないということ。
遅牛も淀、早牛も淀(おそうしもよど、はやうしもよど)
早い遅いの差はあっても、結果は同じだからあわてることはないということ。 「淀」は京都市伏見区にある地名で、集荷場として栄えた場所。 荷物を運ぶ牛の歩みに多少の差があっても、結局行き着く所は淀であるとの意から。 「早牛も淀、遅牛も淀」ともいう。
遅かれ早かれ(おそかれはやかれ)
遅いか早いかの違いはあっても、いつかはそのようになることをいう言葉。いずれそのうちに。いつかは必ず。
遅くとも、しないよりはまし(おそくとも、しないよりはまし)
たとえ遅くなっても、何もしないよりはしたほうがましだということ。
煽てと畚には乗りたくない(おだてともっこにはのりたくない)
おだてには乗りたくない、ということを強調した言葉。「畚」は、棒で担いで土や石を運ぶ道具。江戸時代、畚は死刑囚を運ぶのにも使われたことから、他人の煽てにも畚にも乗りたくないといったもの。
落ち武者は薄の穂にも怖ず(おちむしゃはすすきのほにもおず)
怖いと思えば、なんでもないものまで怖く感じることのたとえ。戦に負けて逃げる落ち武者は、揺れるすすきの穂まで怖がるということから。
頤を外す(おとがいをはずす)
あごが外れるほど大口を開けて笑うこと。 「頤」はあご、「解く」は外すこと。 「頤を外す」「頤を放つ」ともいう。
男心と秋の空は一夜に七度変わる(おとこごころとあきのそらはいちやにななたびかわる)
男の愛情は、秋の空模様のように変わりやすいということ。 「男心と秋の空は一夜に七度変わる」ともいう。
男の目には糸を引け、女の目には鈴を張れ(おとこのめにはいとをひけ、おんなのめにはすずをはれ)
男の目は糸を引いたように細くて真っ直ぐなのがよく、女の目は鈴のようにぱっちりと大きいのがよいということ。
男は敷居を跨げば七人の敵あり(おとこはしきいをまたげばしちにんのてきあり)
男が世の中に出て活動するようになると、多くの競争相手や敵に出会うということのたとえ。 男が敷居を跨いで外に出れば七人の敵がすでに待ち構えているとの意から。 「敷居を跨げば七人の敵あり」「男子家を出ずれば七人の敵あり」ともいう。
男は辞儀に余れ(おとこはじぎにあまれ)
男は謙遜しすぎるくらいでちょうどよいということ。 「女は会釈に余れ」と続けても言う。 「辞儀」は遠慮の意。
男は度胸、女は愛嬌(おとこはどきょう、おんなはあいきょう)
男にとって大切なものは、物事に動じない強い度胸で、女にとって大切なものは、にこやかでかわいらしい魅力だということ。「度胸」と「愛嬌」の「きょう」の語呂を合わせていった言葉。
男は二十五の暁まで育つ(おとこはにじゅうごのあかつきまでそだつ)
男は二十五歳くらいまでは成長するということ。
男は裸百貫(おとこははだかひゃっかん)
男は無一文でも、働いて財産や地位を築くことができるので、裸でも百貫の値打ちがあるということ。
男は松、女は藤(おとこはまつ、おんなはふじ)
男は大地にしっかりと根を張る松のようなもので、女はその松にからむ藤のように男を頼りにするものだということのたとえ。
男は妻から(おとこはめから)
男の出世や幸福は妻しだいだということ。
男鰥に蛆が湧き、女寡に花が咲く(おとこやもめにうじがわき、おんなやもめにはながさく)
妻のいない男は身の回りの世話をしてくれる人がいなくなり不潔な生活になりがちなのに対し、未亡人は、夫にわずらわされることがなくなり、自分の身を美しく清潔に出来るので、世間の男にもてはやされ華やかだということ。
落とした物は拾い徳(おとしたものはひろいどく)
落し物は不注意な落とし主の責任だから、拾った人の物にしてもかまわないということ。
同い年夫婦は火吹く力もない(おないどしみょうとはひふくちからもない)
同い年の夫婦は仲が良く、いつも笑ってばかりいるので、火吹き竹を吹いて火をおこすためのふくれっ面もできないということ。
同じ羽の鳥は集まるものだ(おなじはねのとりはあつまるものだ)
同じような趣味や考え方の人間は、自然と集まって仲間になるということ。
鬼も十八、番茶も出花(おにもじゅうはち、ばんちゃもでばな)
器量が悪くても、年ごろになれば誰でも娘らしい魅力が出てくるということ。 鬼の娘でも十八という年ごろになれば娘らしくなるし、安い番茶も入れたては香りがよくおいしいとの意から。 単に「鬼も十八」また「番茶も出花」ともいう。
己の欲せざる所は人に施すこと勿れ(おのれのほっせざるところはひとにほどこすことなかれ)
自分が他人からされたくないと思うことは、決して他人にしてはならないということ。
己を以て人を量る(おのれをもってひとをはかる)
人はとかく自分を基準にして、他人のことを判断しがちだということ。
尾羽打ち枯らす(おはうちからす)
落ちぶれて、みすぼらしい姿になることのたとえ。 鷹の尾と羽が傷ついてぼろぼろになるとの意から。
