「此」から始まる故事・ことわざ・慣用句 — 13 件
「此」から始まる漢字を含む故事・ことわざ・慣用句を一覧で紹介します。各語を選択すると意味・読み方などの詳細を確認できます。
故事・ことわざ・慣用句一覧
此処一番(ここいちばん)
事の行方や勝ち負けが、まさにこの場面で決着するという大切な時。 ここでしくじれば、それまでほかでどれほどうまく運んでいても意味が失われるような、全力で臨むべき場面をいう。 「ここ一番に強い」「ここ一番で力を発揮する」などと使う。
此処で会ったが百年目(ここであったがひゃくねんめ)
長らく行方を追ってきた相手と、思いがけず行き合う。 二度と取り逃がしはしないと詰め寄る場面の口上で、向けられた側には終わりの宣告になる。
此処は一つ(ここはひとつ)
①相手に頼みごとをするとき、「この場面ではどうか」と前置きして、願いを聞き入れてもらおうとする言い方。 ②どんな結果が出るか分からなくても、とりあえず気軽に試してみようと思い立ったとき、まず口に出す前置きの言葉。 「ここ」は今まさに向き合っている場面のこと。「ひとつ」は、頼むときには「どうか」、試すときには「ちょっと」「ためしに」の気持ちを表す。どちらの意味でも、あとに頼みたいことや、これからすることを述べる言葉が続く。
此処ばかりに日は照らぬ(ここばかりにひはてらぬ)
働き口も住む場所も、ここに限られてはいない。 今の場を離れるにあたって、行く先はいくらでもあると言い置くときにも使う。
此処までお出で、甘酒進じょ(ここまでおいで、あまざけしんじょ)
歩き始めたばかりの子を前へ誘い出そうと、少し離れて手招きしながら唱える文句。 転じて、相手が近づけないのを見越して「来られるものなら来てみろ」とあおる言い回しにもなる。 「進じょ」は「差し上げよう」にあたる古い言い方。
此処を先途と(ここをせんどと)
「今こそが、勝ち負けや物事の行く末を決める大事な場面だ」と心に決め、持てる力のすべてを注ぎこむようす。試合や戦いのほか、試験や仕事など、成功か失敗かが決まる場面で懸命にがんばる姿にも使う。 「先途」は、成り行きが大きく分かれる大切なところのこと。「ここ」はほかでもない今この時を指し、「ここを先途と」で「ここがその分かれ目だ」と見きわめて力を出しきる気持ちを表す。多くは「ここを先途と攻めかかる」などと、どう動くかを表す言葉をあとにつなげて使う。 大事な場面そのものを指す「[[ここ一番*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/9455.php]]」や「[[天王山*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/3837.php]]」に対して、この語はその場面に臨む人の打ちこみぶりに重きを置く。
此処を踏んだら彼所が上がる(ここをふんだらあちらがあがる)
ここを踏みつけると、向こう側がはね上がる。そんなふうに、世の中の物事はどこかで結びついていて、一つに手を加えれば、離れたところにもその結果が及んでくるということ。 また、片方を立てると別の方に不都合が生じ、どれもこれも満足のいく形にするのはとても難しい、という時にも口にする。 似たことわざに「[[あちら立てればこちらが立たぬ*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/1549.php]]」がある。
此の親にしてこの子あり(このおやにしてこのこあり)
親の気質は、そのまま子の振る舞いに写って出る。 子を見て育てた側の人柄まで言い当てるときに使い、褒めるときにも呆れるときにも向けられる。
此れ幸いと(これさいわいと)
思いがけず事情が自分に都合よく転んだのを、願ってもない好機と受け止めて、すぐさまそれを利用して何かをするようす。前からしたいと思いながら機会がなかったことを、この時とばかりに行うときに多く用いる。 多くは「これ幸いと〜する」と動作の言葉に続けて使い、その行いがどんな気持ちでなされるかを表す。思いがけない運に恵まれることそのものをいう[[勿怪の幸い*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/684.php]]とは違い、この句は、訪れた好都合をすかさず生かして動く点に重点がある。「幸い」の字が入る句には、ほかに手当たり次第にという意味の[[当たるを幸い*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/4830.php]]もある。
此れと言って(これといって)
後ろに「ない」「なかった」と否定の語を置いて、あえて話題にするほどのものはない、と伝える言い方。目立った点や変化、人に示せるようなものが特に何もないときに添える。 「これと言って予定はない」「これと言って得意なものはない」など、否定の語と組にして使うのがふつうで、意味は「特に」「とりわけ」に近い。後ろに名詞を続けるときは「これといった」の形になり、「これといった取りえもない」のように言う。物事そのものに人目を引く点が一つもなく、ありふれたさまを指す句としては、[[変哲もない*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/7932.php]]がある。
此に懲りよどうさい坊(これにこりよどうさいぼう)
「この失敗に懲りて、もう二度と同じことはするな」と相手に言うとき、語呂のよさを狙って後ろに「道才坊」と付け足した言い回し。人の名前めいた語を添えて口ぶりを軽くし、しくじった人に、半ばおどけた口調で反省をうながす。 「道才坊」はそれ自体にはっきりした意味のない語で、書き方には「道斎坊」「道才棒」などもある。もとについては、災いよけや武器に使った棒「撮棒(さいぼう)」で打たれて懲りろ、という言い方が変わって、人の名前のような響きに落ち着いたという説がある。京都など関西のいろはがるたにも、この句の札がある。 失敗に懲りて、今度は要らないところまで用心しすぎるさまをいう句に[[羹に懲りて膾を吹く*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/1753.php]]がある。また、語呂を合わせて別の語を付け足す言い方は[[恐れ入谷の鬼子母神*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/2617.php]]と同じ型である。
此やこの(これやこの)
前々から話に聞いたり思い描いたりしていたものに実際に出会い、「なるほど、これこそがそうなのだ」と、しみじみ感じ入って言う言葉。 古い和歌に見られる言い回しで、「や」は感動の気持ちを強めるはたらきをしている。 百人一首に収められた蝉丸の歌は、この句で始まる。歌は、都を出て行く人も都へ戻る人も、顔見知りもそうでない人も、そこで別れてはまためぐり会うという逢坂の関(今の滋賀県大津市にあった関所)を詠んだもの。
此君(しくん)
竹のこと。竹を人のように「この君(このお方)」と呼んだ昔の話から出た語で、「このきみ」とも読む。 晋の時代の中国に、書の名人として名高い王羲之の子に、王徽之がいた。徽之は竹をたいそう好み、しばらく人の空き家に身を寄せたときにも、すぐに竹を植えさせた。なぜかと聞かれると、詩を口ずさんで竹を指さし、「何可一日無此君邪(一日だって、このお方なしでいられようか)」と返したという。『晋書』の王徽之の伝にこの話があり、同じ話は『世説新語』にも載っている。 日本でも平安時代から知られた話で、漢詩の題材となり、竹を「この君」と呼ぶ例が随筆や和歌にも見られる。
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