「仏」に関連する故事・ことわざ・慣用句 — 26 件
「仏」に関連する故事・ことわざ・慣用句を一覧で紹介します。各語を選択すると意味・読み方などの詳細を確認できます。全26件を五十音順に掲載しています。
ことわざ一覧(五十音順)
阿弥陀の光も金次第(あみだのひかりもかねしだい)
金の力は絶大だというたとえ。 阿弥陀仏の御利益も供える金の多少に影響されるということから。 「阿弥陀の光も銭次第」「阿弥陀も銭で光る」ともいう。
居仏が立ち仏を使う(いぼとけがたちぼとけをつかう)
座っている者が、立っている者に用事を頼むたとえ。「居仏」は、座像の仏のこと。
縁なき衆生は度し難し(えんなきしゅじょうはどしがたし)
人の忠告を聞き入れようとしない者は、救いようがないということ。 「縁」は、ここでは仏縁の意。 「衆生」は、仏が慈悲を垂れる人間。 「度す」は、悟りを開かせること。 仏縁のない者は、たとえ仏でも救いようがないとの意から。
お釈迦様でも気がつくまい(おしゃかさまでもきがつくまい)
先の先まで見通すはずの相手ですら、これには思い至るまい。 誰の目にも触れずに済むと言い切るときの形で、歌舞伎「与話情浮名横櫛」で与三郎がお富と再会する場面の台詞としても知られる。
鬼にもなれば仏にもなる(おににもなればほとけにもなる)
相手次第、出方次第で、鬼のようにこわい存在にもなれば、仏のようにやさしい存在にもなるということ。
鬼の念仏(おにのねんぶつ)
鬼のように冷酷な心を持った者が、うわべだけ情け深い様子を見せること。
お迎えが来る(おむかえがくる)
死期が近づくこと。あの世へ行くこと。 仏が浄土から迎えに来るとの意から。
神も仏もない(かみもほとけもない)
困難な状況から救ってくれる神様も仏様もいないと嘆いていう言葉。
木仏、金仏、石仏(きぶつ、かなぶつ、いしぼとけ)
融通の利かないひと。特に男女の情愛に疎いひとのこと。
外面似菩薩、内心如夜叉(げめんじぼさつ、ないしんにょやしゃ)
外面は菩薩のようにやさしく美しいが、内面は夜叉のように邪悪で恐ろしい人のこと。 仏教で、女性が修行の妨げになることを戒めていった言葉。 「外面如菩薩、内心如夜叉」ともいう。
猿が仏を笑う(さるがほとけをわらう)
猿が仏の姿をありがたがりもせず笑うように、思慮の乏しい者は、はるかに及ばぬ相手の大きさを量りかね、かえって鼻で笑ってしまうものだ。
釈迦に宗旨なし(しゃかにしゅうしなし)
仏教の開祖である釈迦には、何宗何派という宗派があったわけではない。仏教の教えはすべて釈迦が発しているのだから、宗派の争いは無意味であるということ。
宗旨の争い釈迦の恥(しゅうしのあらそいしゃかのはじ)
どの宗派もたどっていけば同じ一人の教えに行き着くのだから、その門下どうしが優劣を言い争えば、恥をかくのは釈迦のほうだということ。 身内でいがみ合うことの愚かさを笑った言い方。
知らぬが仏(しらぬがほとけ)
事情が耳に届かないでいるあいだは、波風の立たない心持ちのまま過ごせる。 ひとり事の次第を呑み込めずにいる者は、まわりの笑いを買う。
地獄で仏に会ったよう(じごくでほとけにあったよう)
もう逃げ道がないと腹をくくった場に、よもやという味方が立つ。 難を免れたことよりも、そのときに漏れる安堵のほうを言い表す。 「地獄で仏に会う」「地獄で仏」ともいう。
銭あれば木仏も面を返す(ぜにあればきぶつもつらをかえす)
情の通わぬ相手でも、金子を積めばこちらを向く。 人の心は銭の多寡で動くと言いたてた句。
土仏の水遊び(つちぼとけのみずあそび)
無謀なことをして自ら身を滅ぼすことのたとえ。 土で作られた仏が水遊びをすると溶けてしまうことから。 「土人形の水遊び」「雪仏の水遊び(日向遊び)」ともいう。
天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)
天地の間に自分にまさる尊い者はいないということ。釈迦が誕生してすぐに七歩歩み、右手で天を指し、左手で地を指して唱えたといわれる言葉。「天下」は「てんが」とも読む。
二十五菩薩もそれぞれの役(にじゅうごぼさつもそれぞれのやく)
二十五菩薩にもそれぞれの役目があるように、人間にも各自の役目があるということ。「二十五菩薩」とは、往生を願う信者が臨終の時に、阿弥陀仏とともに迎えに来るといわれる二十五体の菩薩のこと。
寝た間は仏(ねたまはほとけ)
どんな悪人でも眠っている間は仏のように無心だということ。また、眠っている間は苦労や心配も忘れ、仏のような心になれるということ。
仏の顔も三度(ほとけのかおもさんど)
気の長い相手でも、無遠慮を重ねられればいつかは怒る。こちらの甘えが度を越したところで、相手の辛抱は切れてしまう。
仏の沙汰も銭(ほとけのさたもぜに)
この世は金次第でどうにでもなるということのたとえ。 仏がその人を救うかどうかさえも寄付した金銭の多さで変わるということから。
仏も昔は凡夫なり(ほとけもむかしはぼんぷなり)
どんな人間でも努力すれば、仏のように立派になれるということ。 釈迦も元は凡夫だったが、修行の末に悟りを開くことができたとの意から。 「仏も本は凡夫なり」ともいう。
菩提を弔う(ぼだいをとむらう)
死者の冥福を祈ること。また、そのための仏事などを行うこと。
参らぬ仏に罰は当たらぬ(まいらぬほとけにばちはあたらぬ)
何事にも関わらなければ、災いを受けることもないということ。 参ってもいない仏の罰が当たるはずがないとの意から。
臨済の喝、徳山の棒(りんざいのかつ、とくざんのぼう)
臨済は大声を浴びせ、徳山は棒で打った。ふたりの禅僧が弟子を鍛えるのに用いた荒っぽい手だてで、道を求める場の容赦のなさをいう。
