外面似菩薩、内心如夜叉について

言葉 | 外面似菩薩、内心如夜叉 |
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読み方 | げめんじぼさつ、ないしんにょやしゃ |
意味 | 外面は菩薩のようにやさしく美しいが、内面は夜叉のように邪悪で恐ろしい人のこと。
仏教で、女性が修行の妨げになることを戒めていった言葉。 「外面如菩薩内心如夜叉」ともいう。 |
出典 | - |
別表記 | 外面如菩薩内心如夜叉(げめんにょぼさつないしんにょやしゃ) |
使用されている漢字
「外」を含むことわざ
顎が外れる(あごがはずれる)
あまりにおかしくて、口を大きく開けて大笑いすることのたとえ。
当てが外れる(あてがはずれる)
期待や予想とは異なった結果になること。
当て事と越中褌は向こうから外れる(あてごととえっちゅうふんどしはむこうからはずれる)
当てにしていた事は、相手の都合などで外れることが多いというたとえ。 「当て事」は当てにしている事。「向こう」は身体の前、また、相手のこと。 当てにしていた事は、越中褌と同じように、向こうから外れるという意から。
当て事は向こうから外れる(あてごとはむこうからはずれる)
当てにしていた事は、相手の都合などで外れることが多いというたとえ。 「当て事」は当てにしている事。「向こう」は身体の前、また、相手のこと。 当てにしていた事は、越中褌と同じように、向こうから外れるという意から。
家を外にする(いえをそとにする)
事情があって外出していること。また、自分の家に帰らず、外泊すること。
色は思案の外(いろはしあんのほか)
恋愛は理性を失わせるから、常識や理屈ではとうてい理解できないということ。「恋は思案の外」「恋は分別の外」ともいう。
「面」を含むことわざ
いい面の皮(いいつらのかわ)
割に合わないことやひどい目に遭ったときに、嘲笑的に言う言葉。
一工面、二働き(いちくめん、にはたらき)
世渡り上手は金の工面をする才覚が第一で、勤勉に働くのはその次だということ。
臆面もなく(おくめんもなく)
遠慮したり気後れしたりすることなく。図々しく。厚かましくも。
思い面瘡、思われ面皰(おもいおもくさ、おもわれにきび)
人に恋したり、誰かに思いを寄せられたりすると、にきびができるということ。「思瘡」は、にきびの意。
面も振らず(おもてもふらず)
他に心を向けず、その事だけに一生懸命に取り組んでいるさま。
蛙の面に水(かえるのつらにみず)
どんなことをされても気にせず平気でいることのたとえ。蛙は顔に水をかけられても平気でいることから。
「似」を含むことわざ
赤子のうちは七国七里の者に似る(あかごのうちはななくにななさとのものににる)
赤ん坊ははっきりした特長がないので、似てると思って見ればあちこちの誰にでも似て見えるということ。「七国七里」は諸所方々のこと。
鵜の真似をする烏(うのまねをするからす)
自分の能力をわきまえず、人の真似をして失敗することのたとえ。鵜は水に潜って巧みに魚を捕るが、烏が真似をして魚を捕ろうと水に潜っても溺れるばかりであるということから。「鵜の真似をする烏水に溺れる」「鵜の真似をする烏水を呑む」ともいう。
往時渺茫としてすべて夢に似たり(おうじびょうぼうとしてすべてゆめににたり)
過ぎ去った昔の事はもうはるかかなたの事で、とりとめがなく、まるで夢のように思えるということ。「往時」は過ぎ去った昔のこと。「渺茫」は遠くはるかで果てしないさま。
親に似ぬ子は鬼子(おやににぬこはおにご)
子どもは当然親に似るものであり、親に似ない子はいないということ。親に似ない子は人間の子ではなく鬼の子であるという意から。
蟹は甲羅に似せて穴を掘る(かにはこうらににせてあなをほる)
人はそれぞれ自分の身分や力量に応じた考え方や行動をするというたとえ。蟹は自分の大きさに合わせて穴を掘るということから。
猿の人真似(さるのひとまね)
猿のようによく考えもしないで、人の真似をすることをあざけっていう言葉。
「菩」を含むことわざ
外面似菩薩、内心如夜叉(げめんじぼさつ、ないしんにょやしゃ)
二十五菩薩もそれぞれの役(にじゅうごぼさつもそれぞれのやく)
二十五菩薩にもそれぞれの役目があるように、人間にも各自の役目があるということ。「二十五菩薩」とは、往生を願う信者が臨終の時に、阿弥陀仏とともに迎えに来るといわれる二十五体の菩薩のこと。
人間は実が入れば仰向く、菩薩は実が入れば俯く(にんげんはみがいればあおむく、ぼさつはみがいればうつむく)
菩提を弔う(ぼだいをとむらう)
死者の冥福を祈ること。また、そのための仏事などを行うこと。
「薩」を含むことわざ
外面似菩薩、内心如夜叉(げめんじぼさつ、ないしんにょやしゃ)
薩摩守(さつまのかみ)
乗り物に無賃乗車すること。平忠度が薩摩の守だったので、「忠度(ただのり)」と「只乗り」をかけていったもの。
二十五菩薩もそれぞれの役(にじゅうごぼさつもそれぞれのやく)
二十五菩薩にもそれぞれの役目があるように、人間にも各自の役目があるということ。「二十五菩薩」とは、往生を願う信者が臨終の時に、阿弥陀仏とともに迎えに来るといわれる二十五体の菩薩のこと。
人間は実が入れば仰向く、菩薩は実が入れば俯く(にんげんはみがいればあおむく、ぼさつはみがいればうつむく)
「内」を含むことわざ
毬栗も内から割れる(いがぐりもうちからわれる)
誰でも年ごろになると自然と色気が出てくるということのたとえ。特に女性についていう。 鋭いとげのある毬栗でも熟せば自然にはじけて実が飛び出すという意から。
内兜を見透かす(うちかぶとをみすかす)
相手の内情や弱点を掴むたとえ。「内兜」は兜の内側のこと。
内で掃除せぬ馬は外で毛を振る(うちでそうじせぬうまはそとでけをふる)
家庭のしつけが悪い子どもは、外に出るとすぐにわかるということのたとえ。飼い主の手入れの悪い馬は、外に出た時に毛を振って汚れを落とそうとするので、すぐわかるという意から。
内に省みて疚しからず(うちにかえりみてやましからず)
自分の心の中を振り返ってみて、良心に恥じることが少しもないということ。
内裸でも外錦(うちはだかでもそとにしき)
どんなに苦しくても世間体を繕わなければ世の中をうまく渡っていくことはできないというたとえ。貧しくて家の中では裸同然の暮らしをしていても、外に出る時はきちんとした身なりをしなければならないという意から。
内弁慶(うちべんけい)
家の中では威張っていても外では意気地がないこと。また、そういう人。
「心」を含むことわざ
諦めは心の養生(あきらめはこころのようじょう)
失敗や不運をくよくよ考えるより、きっぱり諦めたほうが精神的に良いということ。
明日ありと思う心の仇桜(あすありとおもうこころのあだざくら)
いつ何が起こるかわからない、人生や世の中の無常をいった言葉。桜の花が、明日も咲いているだろうと安心していると、夜中の嵐で散ってしまうかもしれないという意から。「夜半に嵐の吹かぬものかは」という句がこれに続く。
頭剃るより心を剃れ(あたまそるよりこころをそれ)
外見より精神が大事だということ。頭を剃って姿だけ僧になるより、まず心を清浄せよという意から。
過つは人の性、許すは神の心(あやまつはひとのさが、ゆるすはかみのこころ)
人は誰でも過ちを犯しやすく、その過ちを許すのは神であるということ。「過ちは人の常、許すは神の業」ともいう。
怒り心頭に発する(いかりしんとうにはっする)
心の底から激しい怒りがわきあがること。 「心頭」は心の中の意。
生きた心地もしない(いきたここちもしない)
恐ろしさのあまり、生きているという感じがしないさま。
「如」を含むことわざ
雨、車軸の如し(あめ、しゃじくのごとし)
大粒の雨がはげしく降るさま。雨脚を車軸に見立てていうことから。
危うきこと虎の尾を踏むが如し(あやうきこととらのおをふむがごとし)
非常に危険なことをすることのたとえ。
危うきこと累卵の如し(あやうきことるいらんのごとし)
きわめて不安定で危険な状態のたとえ。「累卵」は積み重ねた卵のことで、いつくずれるかわからないという意から。
蟻の甘きにつくが如し(ありのあまきにつくがごとし)
蟻が甘いものに群がるように、利益のある所に人が群がることのたとえ。
如何物食い(いかものぐい)
世間一般の人とは違う趣味・嗜好を持つこと。また、その人。 「如何物」は「いかさまもの」の略。 普通の人が嫌がって食べないような物を好んで食べるという意から。
如何せん(いかんせん)
残念ながら、いい方法がない。どうしようもない。
「夜」を含むことわざ
明るけりゃ月夜だと思う(あかるけりゃつきよだとおもう)
考え方が単純で現実を知らないことのたとえ。外が明るいとすべて月夜だと思う意から。
朝起き千両、夜起き百両(あさおきせんりょう、よおきひゃくりょう)
朝早く起きて仕事をするほうが、夜働くより能率が上がり得だということ。 「朝起き千両」とも。
朝の来ない夜はない(あさのこないよるはない)
ものごとは必ずいつか、よい方へ変わるということ。「夜の明けない朝はない」ともいう。
雨夜の月(あまよのつき)
想像するだけで、現実には見ることのできないもののたとえ。雨夜にも月はあるはずだが、目には見えないことから。
暗夜に灯火を失う(あんやにともしびをうしなう)
暗闇で明かりを失うように、頼りにしていたものを失って途方にくれることのたとえ。
暗夜の礫(あんやのつぶて)
不意に受ける襲撃。防ぎようのないことのたとえ。また、まったく見当のつかないことのたとえ。「礫」は小石の意。
「叉」を含むことわざ
外面似菩薩、内心如夜叉(げめんじぼさつ、ないしんにょやしゃ)
夜叉が嫁入り(やしゃがよめいり)