「中」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 109 件
「中」を含む漢字が使われている故事・ことわざ・慣用句を一覧で紹介します。各語を選択すると意味・読み方などの詳細を確認できます。
故事・ことわざ・慣用句一覧
顎で背中を搔く(あごでせなかをかく)
そのつもりで手を伸ばしても、体のつくりからして届きようがない。 やろうとする姿勢だけは見せながら、初めから形にならない事柄をいう。
麻の中の蓬(あさのなかのよもぎ)
交わる相手や暮らす場がよければ、人はいつの間にか良い方へ染まっていくというたとえ。 地をはって伸びがちな蓬も、まっすぐ立つ麻の間に生えれば、支えなしで上へ伸びるという『荀子』勧学篇のことばから。 「蓬麻中に生ずれば扶けずして直し」「麻の中の蓬」「麻中の蓬」ともいう。
頭の中が真っ白になる(あたまのなかがまっしろになる)
突然の出来事や強い緊張・衝撃などで思考が止まり、何も考えられず言葉も出なくなること。 記憶が抜け落ちたり、次に何をすべきか判断がつかなくなったりする様子を、色のない無地の状態にたとえた言葉。 「頭の中が白くなる」ともいう。
中らずと雖も遠からず(あたらずといえどもとおからず)
ぴったり当たっていないが、ほぼ的中と言えるということ。 「中らず」は「当たらず」とも書く。
当て事と越中褌は向こうから外れる(あてごととえっちゅうふんどしはむこうからはずれる)
当てにしていた事は相手の都合で外れることが多いことのたとえ。 「当て事」は当てにしている事。 「向こう」は身体の前、また、相手のこと。 越中褌が身体の前から外れやすいのと同じように、当てにしていた事は向こうから外れることが多いということ。 「当て事は向こうから外れる」「当て事と畚褌は先から外れる」ともいう。
後先息子に中娘(あとさきむすこになかむすめ)
子どもを持つなら三人で、最初と最後は男、真ん中は娘が理想だということ。
暗中的を射る(あんちゅうまとをいる)
明かりのない暗がりで的をねらって矢を放っても、まず当たりはしない。このことから、ねらいがまるで外れてしまうことや、何ひとつ見当をつけられずにいることを表す。 「暗中」は、光がなくて暗い所の中という意味。 近い意味をもつ言葉に[[暗夜の礫*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/1894.php]]・[[暗闇の鉄砲*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/984.php]]・[[闇に鉄砲*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/4314.php]]がある。
石の物言う世の中(いしのものいうよのなか)
秘密や隠し事が漏れやすいことのたとえ。 言葉を発するはずのない石が物を言うほど世の中では秘密が漏れやすいとの意から。
一文高の世の中(いちもんだかのよのなか)
お金や財産をほんの少しでも多く持つ人ほど大事にされ、いばっていられる世の中のこと。 お金さえあれば、まわりの人に対して強い立場に立てる世の中の様子もいう。 「一文」は昔のお金でいちばん小さい単位。その一文ぶんのわずかな差でも、多く持つほうが上に見られる世の中だというのが、この言葉の心。 お金の力の強さをいう言葉に[[金が物言う*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/1075.php]]や[[地獄の沙汰も金次第*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/1765.php]]がある。
意中の人(いちゅうのひと)
心の中でひそかに思い、慕っている人。
意に中る(いにあたる)
考えや望みに、ぴたりとかなうこと。願っていたとおりに事が運ぶ意味でも使う。 「中る」は「あたる」と読み、ずれなく合うことを表す。ねらいどおりの成り行きになったときにも言う。 [[意に適う*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/5139.php]]と、意味の上での差はあまりない。
井の中の蛙大海を知らず(いのなかのかわずたいかいをしらず)
外の広い世界や多様な考えを知らず、狭い見識にとらわれていることのたとえ。 狭い井戸の底で暮らす蛙は、外にある広大な海の存在を知るよしもないという意から。 「井蛙大海を知らず」「大海知らぬ井の蛙」「埳(坎)井の蛙」「井底の蛙」「井蛙」などともいう。
茨の中にも三年の辛抱(いばらのなかにもさんねんのしんぼう)
とげだらけの茨に囲まれたようなつらい状況に置かれても、三年もこらえ続ければ、やがて苦労しただけのかいがあると説く言葉。途中で投げ出さずに辛抱を重ねる大切さを伝えている。 「茨」は枝にとげのある低い木のことで、身を置くだけで痛い思いをする苦しい立場を表している。 短く「茨の中にも三年」ともいう。[[石の上にも三年*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/2459.php]]も、同じ教えを含んだ句だ。
魚の釜中に遊ぶが如し(うおのふちゅうにあそぶがごとし)
危険が迫っていることも知らずにのんきにしていることのたとえ。また、死が迫っていることのたとえ。 やがて煮られることも知らずに魚が釜の中をのんびり泳いでいることから。 「釜中の魚」ともいう。
鶯の卵の中のほととぎす(うぐいすのかいごのなかのほととぎす)
わが子として育てているのに、本当は血を分けた子ではないこと。 ほととぎすは子育てをせず、鶯の巣へ卵を産みつけて、ひなの世話を鶯にまかせる。鶯から見れば、自分の卵にまじってかえったひなも、じつはよその鳥の子なのである。 「中」は「うち」とも読み、「かいご」は鳥の卵をさす古い言葉。『万葉集』には、鶯の卵の中からほととぎすがひとりで生まれ、父にも母にも似ない声で鳴くとうたった長歌があり、この言葉はそこから出ている。 同じく、鶯に育てられるほととぎすをたとえにした言葉に[[子で子にならぬ時鳥*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/4433.php]]がある。
中に誠あれば外に形る(うちにまことあればそとにあらわる)
偽りのない真心を胸に持っていれば、わざわざ人に見せようとしなくても、それはおのずと話しぶりやふだんの行いに表れる。 儒教の古典『大学』の一節「誠於中、形於外」を、日本語の文に読み下したもの。この句の「誠」は、うそのない真心であるとともに、心の中にある本当の姿のことも指す。原文はこのあとに、だから立派な人は人目のない所でも必ず自分の行いを慎む、と続けている。 心の中のものが外に表れるという点で、「[[思い内にあれば色外に現る*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/2113.php]]」と通じる。
家の中の盗人は捕まらぬ(うちのなかのぬすびとはつかまらぬ)
あまりに近くにある物事は、かえって目が行き届かず、気づかないまま見過ごしてしまう。 わが家にいるときは、だれも身構えてはいない。だから、たとえ家の者の中にどろぼうがまぎれていても、怪しいとは思わず、取り押さえられないままになるということから。 すぐそばのことほど見えにくいという点で、「[[灯台下暗し*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/2386.php]]」と意味が重なる。
梅は食うとも核食うな中に天神寝てござる(うめはくうともさねくうななかにてんじんねてござる)
梅の実は食べてかまわないが、中の種まで食べるのはよくない、と気をつけさせる言葉。生の梅の種には体に害となるものがひそんでいるので、用心するよう言い聞かせる。 熟していない梅の実やその種には、体の中で青酸という毒を生み出す成分(アミグダリン)が入っており、生のまま食べると具合が悪くなるおそれがある。 後半の「中に天神寝てござる」は、「種の中では天神様が眠っておいでだ」の意。天神とは、神としてあがめられる菅原道真を指す。道真は梅をことのほか愛したといわれ、そこから梅の種の中身を「天神様」と呼ぶならわしがあり、それにかけて唱え言葉にしたと見られる。 同じく道真と梅との縁から生まれた俗信に、梅の種をかじると文字を忘れる、という言い習わしもある。
江戸中の白壁は皆旦那(えどじゅうのしらかべはみなだんな)
奉公先などいくらでもあるということ。江戸には白壁の蔵を構えた家がそこら中にあるのだから、という理屈。 「白壁」は土蔵造りの壁で、そういう蔵を持てる商家、つまり金のある主人を指す。「旦那」は奉公人から見た主人。 いまの主家に不服を鳴らすときの捨てぜりふ。
淵中の魚を知る者は不祥なり(えんちゅうのうおをしるものはふしょうなり)
深い水の底にひそむ魚まではっきり見分けられるほど目のきく人は、その目のよさゆえに災いを招く、という古いことわざ。人が胸の内にしまっている考えや、知られたくない秘密まで見抜けば、相手は警戒を強め、見抜いた側の身が危うくなる。そうした戒めを込めた言葉である。また、国や人を治める者は大事な点さえつかんでいればよく、細かな事柄まで一つ残らずほじくり出そうとすれば、むしろ害が出る。政治にたずさわる者の心構えを説くときにも、この句を引く。 「淵(ふち)」は川などで水が深くよどんでいる所、「不祥(ふしょう)」は縁起が悪いこと、不吉なことをいう。中国の『韓非子』説林上に、次の話がある。斉の国のある役人が、国で大きな力を持つ田成子に招かれて高い台に上った。三方は遠くまで見渡せたが、南だけはこの役人の家の木がじゃまをしていた。田成子は何も言わなかったが、役人は家に帰ると木を切らせ、何度か斧を入れたところで急にやめさせた。わけを聞かれた役人は、「昔のことわざに、深い淵の中にいる魚を見通す者には不吉なことが起こるとある。田成子は大きな企てを胸に秘めている。口に出さない思いまで読み取ったと知られたら、わたしの身が危ない。木を切らなくても罪にはならないが、人の言わない心の中を見抜いた罪は重い」と語った。 周の国のことわざとしては、『列子』説符にも「淵の魚を察見する者は不祥」と見える(察見は、細かな点までよく見て知ること)。この書では、盗人の目つきや顔色から心の内を見抜く名人が、かえって盗賊たちの恨みを買って殺されてしまった話に添えて記される。また、『史記』の呉王濞(ごおうび)列伝では、呉の使者が漢の皇帝にこのことわざを持ち出し、主君の仮病を問い詰めて追い込むよりも、水に流してやり直させてほしいと願い出ている。 水が澄みすぎると魚が寄りつかないという[[水清ければ魚棲まず*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/556.php]]も、細かな所まで厳しく見すぎることの害をいう点で、この句と相通じる。
尾を泥中に曳く(おをでいちゅうにひく)
高い地位や役職に就いて身動きのとれない毎日を送るよりも、暮らし向きは苦しくとも、誰にも縛られずに日々を過ごすほうを選ぶという考え方。 「曳く」は、地面をこするように引いていくこと。「泥中」はぬかるみの中を表し、同じ意味で「塗中」と書く形もある。 もとは中国の古典『荘子』に載る話である。川で釣り糸を垂れていた荘子のところへ、楚という国の王から使いが来て、国の政治を任せたいと願い出た。荘子は「楚には、死んで三千年たつ神聖な亀を、王が布で包んで箱に納め、先祖を祭る建物に大事にしまっていると聞く。この亀にとっては、骨となって敬われるのと、命があって泥にまみれ、尾をずるずる引きながら這い回るのと、どちらがよかっただろうか」と問うた。使いが生きているほうだと答えると、荘子は「帰りなさい。わたしも泥の中で尾をずるずる引いていたい」と言って、申し出に応じなかった。 この故事を四字で言い表したのが[[曳尾塗中*https://yoji.jitenon.jp/yojib/644]]である。人に仕えて立派な着物を着るよりも、ぼろを着ても思うままに暮らしたいと願う[[錦着ての奉公より襤褸着ての我が世*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/1276.php]]も、近い考えを表す句である。
海中より盃中に溺死する者多し(かいちゅうよりはいちゅうにできしするものおおし)
海で溺れて死ぬ人より酒の飲みすぎで死ぬ人の方が多いということ。
渦中に巻き込まれる(かちゅうにまきこまれる)
いつの間にか事件や争いなどのごたごたに引き込まれてしまうこと。 「渦中に巻き込まれる」ともいう。
火中の栗を拾う(かちゅうのくりをひろう)
得をするのは他人ばかりだというのに、おだてに乗って危ない仕事に手を出すことのたとえ。 猿にうまく持ちあげられた猫が、炉で焼けている栗を前足でかき出しては足を焼き、その栗はそばで猿にすっかり食べられてしまうという話による。
金が敵の世の中(かねがかたきのよのなか)
人が悩んだり苦しんだりする原因が金であることが多い。金は敵のようなものだということ。また、なかなか敵に巡りあえないように、金運との巡りあいも難しいということ。
壁の中の書(かべのなかのふみ)
孔子が住んでいた家の壁の中から見つかったと伝わる、古い書物のこと。『尚書(書経)』『礼記』『論語』『孝経』など、儒学の教えを記した数十編を指す。 前漢の武帝の時代の終わりごろ、魯の共王が自分の宮殿を広げようとして孔子の旧宅を取りこわしたところ、壁の中から昔の字体で記されたこれらの書物が出てきたという、『漢書』芸文志の記事による。秦の始皇帝が書物を焼き捨てさせたとき、その難を逃れるため、ひそかに壁に塗りこめて隠したと伝わる。 そこから広げて、儒学の古典をまとめて指していうこともある。
川中には立てど人中には立たれず(かわなかにはたてどひとなかにはたたれず)
世渡りは難しいというたとえ。 流れが急な川の中に立つことはできても、世間に流されずに生きることは難しいとの意から。
管中に豹を見る(かんちゅうにひょうをみる)
細い管ごしに豹をのぞいても、毛皮のまだら模様はほんの少ししか見えない。物事のほんの一部にしか目が届かず、考えや見方がせまいことをいうたとえ。 晋(昔の中国の王朝)の書家として知られる王献之(王羲之の子)の、子どものころの出来事に由来する。ある日、門人たちのばくちをそばで見ていた王献之が、勝ち負けについて口を出した。すると門人たちは幼い子だと見くびって、「この坊ちゃんも、細い管から豹をのぞき見て、たまたままだらの一つが見えたようなものさ」とからかい、王献之は怒って席を立ったという。『世説新語』や『晋書』に見える話である。 「窺う」は、すき間などからこっそりのぞくこと。「管の中から豹を見る」「管中に豹を窺う」「管中豹を窺う」「管豹の一斑」ともいい、四字熟語に直せば「[[管中窺豹*https://yoji.jitenon.jp/yojii/4377]]」となる。意味の上で近いのは「[[管を以て天を窺う*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/2851.php]]」で、同じ話をもとにしてできた言葉に「[[一斑を見て全豹を卜す*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/2526.php]]」がある。
眼中に無い(がんちゅうにない)
まったく気にしない。関心がない。 「眼中」は目に見える範囲のこと。転じて、意識や関心の届く範囲。
眼中の釘(がんちゅうのくぎ)
目に刺さった釘のように、そばにあるだけで気にさわり、どうにかして取りのぞきたいと思う人やもののたとえ。行く手をさえぎる者や、害を加えてくる者を指すのがふつうだ。 中国の五代のころの話による。宋州を治めていた趙在礼(ちょうざいれい)は、土地の人々をひどく苦しめた。やがてかれが職を解かれて去ることになると、人々は「目から釘を抜いたようだ。これほど愉快なことはない」と喜び合った。ところが趙在礼は、再び命令を受けて元の職にとどまり、治める土地の住民から一人あたり銭千文を取り立てて、これを「抜釘銭(釘抜きの銭)」と名づけたという。『新五代史』の趙在礼の伝に、この話が記されている。 読みを「がんちゅうのてい」とする本もあり、釘を刺(とげ)に替えて「眼中の刺」とも言う。 「[[目の上の瘤*https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/815.php]]」も、じゃまでうっとうしい存在をたとえた句である。また、趙在礼の同じ話から、四字熟語の「[[眼中之釘*https://yoji.jitenon.jp/yojii/4379]]」も生まれた。
