「経験」に関連する故事・ことわざ・慣用句 — 83 件
「経験」に関連する故事・ことわざ・慣用句を一覧で紹介します。各語を選択すると意味・読み方などの詳細を確認できます。全83件を五十音順に掲載しています。
ことわざ一覧(五十音順)
いい薬になる(いいくすりになる)
辛い経験や失敗などが教訓として役に立つ、という意。
烏賊の甲より年の劫(いかのこうよりとしのこう)
「亀の甲より年の劫」の亀を、同じく甲を持つ烏賊に置き換えた言い方。意味は変わらず、重ねた年月がものを言うということ。 「烏賊の甲」は、烏賊の体内にある舟形の甲羅のこと。
医者と味噌は古いほどよい(いしゃとみそはふるいほどよい)
医者は経験を積んだ年寄りのほうが信頼できるし、味噌は年月が経ったもののほうがおいしいということ。
板に付く(いたにつく)
経験を積んで、動作や態度などが職業や地位にふさわしくなること。 「板」は芝居の舞台のこと。 役者の芸が舞台にぴったり合うとの意から。
一日の長(いちじつのちょう)
経験・知識が他の人より少しだけ優れていること。その人より一日分年長であるとの意から。
田舎の学問より京の昼寝(いなかのがくもんよりきょうのひるね)
田舎で勉強するより、たとえ昼寝をしながらのんびり過ごしたとしても、都会に身を置いたほうがさまざまな人や物に接するため、多くのことを学ぶということ。
殷鑑遠からず(いんかんとおからず)
戒めとなる失敗の例は、すぐ身近にあるというたとえ。 殷の国民が鑑(かがみ)とすべき手本は、遠い時代に求めなくても、前代の夏(か)の滅亡がよい戒めであるとの意から。
腕に覚えがある(うでにおぼえがある)
以前の経験から、自分の能力や技術に自信を持っていること。
馬には乗ってみよ人には添うてみよ(うまにはのってみよひとにはそうてみよ)
何事も経験してみなければわからないということ。 いい馬かどうかはその馬に乗ってみないとわからないし、人間の善し悪しも付き合ってみなければわからないことから。 「人には添うてみよ馬には乗ってみよ」ともいう。
生まれながらの長老なし(うまれながらのちょうろうなし)
生まれながらにすぐれた人間などいるはずもなく、みんな長い間の修養や経験をつんで立派な人間になるということ。
海に千年山に千年(うみにせんねんやまにせんねん)
経験豊富で抜け目なく悪賢いこと。また、そういう人のこと。 海に千年、山に千年住んだ大蛇は竜になるという言い伝えから。 「海千山千」ともいう。
老いたる馬は道を忘れず(おいたるうまはみちをわすれず)
経験を積んだ人は方針を誤らないというたとえ。 老馬はいろいろな道を知っており、迷うことがないということから。 中国、斉の桓公が山中で道に迷った時に、老馬の歩みに従って無事に帰り着いたという故事から。 同じ故事から出た漢語の言い方に「老馬の智」がある。
負うた子に教えられて浅瀬を渡る(おうたこにおしえられてあさせをわたる)
人は時には自分より経験の浅い年下の者から物事を教わることもあるというたとえ。背中に負ぶった子に浅瀬を教えられて川を無事に渡るとの意から。
嘉肴ありと雖も食らわずんばその旨きを知らず(かこうありといえどもくらわずんばそのうまきをしらず)
何事も自分で体験してみなければ、その価値やすばらしさがわからないということ。 「嘉肴」は、おいしい料理。 どんなにおいしい料理も、自分で食べてみなければそのおいしさはわからないとの意から。
歌人は居ながらにして名所を知る(かじんはいながらにしてめいしょをしる)
歌人は古歌や歌枕の研究によって、実際にその場所に行ったことはなくても、名所について詳しいということ。
勝手を知る(かってをしる)
ある場所の様子や内情を知っていること。
亀の甲より年の劫(かめのこうよりとしのこう)
長く生きた者が身につけた経験と分別は、若い者の思いつきでは届かない。年上の言うことには耳を貸せということ。 「劫」はきわめて長い時間をいう仏教の語で、「功」とも書く。亀の甲羅の「こう」と音を合わせて語呂よく言ったもの。
体で覚える(からだでおぼえる)
実際に体験して、技術などを全身の感覚で身に付けること。
かわいい子には旅をさせよ(かわいいこにはたびをさせよ)
子どもがかわいいなら、甘やかして育てるより、世の中に出してつらさや苦しさを経験させたほうがいいということ。 「いとしい子には旅をさせよ」ともいう。
勧学院の雀は蒙求を囀る(かんがくいんのすずめはもうぎゅうをさえずる)
ふだん見慣れたり聞き慣れたりしていることは、習わなくても自然に身に付くというたとえ。 「勧学院」は、平安時代に藤原氏の子弟を教育した学校。 「蒙求」は、中国唐の時代に書かれた歴史教訓書。 勧学院の雀は、学生が蒙求を読むのを聞き覚えて、それをさえずるようになったということから。
雁も鳩も食わねば知れぬ(がんもはともくわねばしれぬ)
自分の舌で確かめてはじめて、そのものの中身は言い当てられる。 雁の肉と鳩の肉は、目で見ているかぎりよく似ている。世の中の物事も同じことで、傍から品定めをしても当たらない。「雁も鳩も食うた者が知る」ともいわれる。
聞いた百文より見た一文(きいたひゃくもんよりみたいちもん)
人から百文の値打ちと聞かされるよりも、自分の目で見たほうが値打ちがあるということ。
聞くと見るとは大違い(きくとみるとはおおちがい)
人から聞いたのと実際に見るのとでは大きな違いがあるということ。
来て見ればさほどでもなし富士の山(きてみればさほどでもなしふじのやま)
何事もおおげさに言われるもので、実際に見てみると想像していたほどのものではないことが多いというたとえ。 富士山はすばらしいと言われているけれども、来てみればそれほどの山ではなかったとの意から。
薬になる(くすりになる)
今まで経験してきた失敗や挫折などが、後に本人にとっていい影響を与えるということ。
嘴が黄色い(くちばしがきいろい)
年が若くて経験が浅いことをあざけっていう言葉。ひな鳥の嘴が黄色いことから。
経験は愚か者の師(けいけんはおろかもののし)
愚か者に教えるには、実際に経験させてみるのがいいということ。経験の大切さをいった言葉。
経験は知恵の父記憶の母(けいけんはちえのちちきおくのはは)
人間の知恵は、経験とその記憶によって成り立っているということ。
経験は馬鹿をも賢くする(けいけんはばかをもかしこくする)
物覚えの鈍い者でも、身をもって通った回数だけは判断が確かになる。 書物より、痛い目のほうがよほど人を作るという言い方。
後悔は知恵の緒(こうかいはちえのいとぐち)
後悔することによって、次から事に備えることができる。後悔は気付きのきっかけであるということ。
黄口(こうこう)
ごく幼い子ども。また、世の中の何たるかをまだ知らないでいる者。もとは巣立ち前の鳥の黄ばんだくちばしを指す語。
甲羅を経る(こうらをへる)
年功を積むこと。また、世間ずれして厚かましくなること。「甲羅」の「甲」は、功・劫に掛けて年の功の意。「ら」は、接尾語。
子を持って知る親の恩(こをもってしるおやのおん)
わが子を育てる側に回ってはじめて、かつて自分が受けていたものの重さに気づくということ。 手のかかりようも掛かりの重さも、その立場に立たなければ見えてこない。
塩を売れば手が鹹くなる(しおをうればてがからくなる)
仕事の癖や習慣は、いつの間にか身について、生まれつきのようになっているというたとえ。毎日塩を売っていれば、自然と手が鹹くなっているということから。
しくじるは稽古のため(しくじるはけいこのため)
失敗は後に成功するための練習をしているようなものという意味。
四十にして惑わず(しじゅうにしてまどわず)
四十歳にもなれば道理を理解して迷わなくなるということ。 「不惑」ともいう。
失敗は成功のもと(しっぱいはせいこうのもと)
失敗は、その原因を反省し改めていくことによって、成功につながるということ。 「もと」は「基」「因」とも書く。 「失敗は成功の母」ともいう。
芝居は無筆の早学問(しばいはむひつのはやがくもん)
書物に向かえない者でも、舞台を見ているあいだに世の移り変わりや人の道筋が呑み込めてくる。 芝居小屋が、そのまま教場の役をしていた。 「芝居は一日の早学問」ともいう。
知らぬ呉服商売より知った小糠商い(しらぬごふくしょうばいよりしったこぬかあきない)
実入りが細くても、手の内を知っている稼業を続けるほうが確かだ。 不案内なまま大きな商いに乗り出せば、儲けの前に足をすくわれる。
尻が青い(しりがあおい)
経験が乏しく、一人前ではないこと。未熟であること。 幼児の尻に青い痣があることから。
酸いも甘いも嚙み分ける(すいもあまいもかみわける)
経験が豊かで、世間の事情も人の心の繊細さも知り尽くしていること。 酸っぱい物と甘い物を区別して味わい、いい点と悪い点をよく知っているとの意から。 「嚙」は「噛」とも書く。 また「酸いも甘いも知っている」「酸いも甘いも知り抜く」ともいう。
世故に長ける(せこにたける)
世間の事情を知り尽くしていて、世渡りがうまい様子。「世故」は、世間の習慣やならわしのこと。
洗礼を受ける(せんれいをうける)
今までにない経験をすること。 または、試練を与えられること。 元は、キリスト教の信者になる儀式をいう言葉。
前車の覆るは後車の戒め(ぜんしゃのくつがえるはこうしゃのいましめ)
先人の失敗は後人の戒めになるというたとえ。 前の車が覆るのを見て、後の車は戒めにするとの意から。 単に「後車の戒め」ともいう。
他山の石(たざんのいし)
他人の誤った言行を、自分の修養のために役立てること。 よその山から取れたつまらない石でも、自分の宝石を磨くのに使えるとの意から。
畳の上の水練(たたみのうえのすいれん)
理屈や方法を知っているだけで、実際には役に立たないことのたとえ。 「水練」は、水泳の練習。 畳の上で水泳の練習をしても、泳げるようにならないことから。 「畳水練」「畑水練」ともいう。
他人の飯を食う(たにんのめしをくう)
親元を離れ、他人の間に揉まれて実社会の経験を積むこと。
他人の飯を食わねば親の恩は知れぬ(たにんのめしをくわねばおやのおんはしれぬ)
親元を離れ、他人と暮らし、世間で苦労してみなければ、親の恩は知れないということ。
血となり肉となる(ちとなりにくとなる)
学んだことや経験したことがしっかりと身について、将来に役立つようになること。 摂取した食物がよく吸収されて、やがて体の一部(血や肉)になるとの意から。
鄭家の奴は詩をうたう(ていかのやっこはしをうたう)
ふだん見聞きしていることは、自然に覚えるというたとえ。「鄭家」は、中国後漢の学者である鄭玄。鄭玄の家の雇い人は習いもしないのに詩経をうたうということから。
年が薬(としがくすり)
年を取るにつれて分別が身に付いてくるということ。 「年こそ薬なれ」ともいう。
年問わんより世を問え(としとわんよりよをとえ)
年をとっているか若いかを問題にするよりも、その人の人生経験の内容を問題にせよということ。
年寄りの言うことと牛の鞦は外れない(としよりのいうこととうしのしりがいははずれない)
経験豊富な年寄りの意見に間違いはないということ。 「鞦」は、馬や牛の尻にかけて鞍を固定する紐のこと。
年寄りは家の宝(としよりはいえのたから)
経験の豊かな年寄りは何でもよく知っていて、家の宝のような存在だということ。
隣の餅も食ってみよ(となりのもちもくってみよ)
世の中の事は、実際に経験しないとわからないというたとえ。 おいしそうに見える隣家の餅も、食べてみなければ味はわからないとの意から。
習うより慣れよ(ならうよりなれよ)
物事は人に教えられるよりも実際に経験を積んだほうが身につくということ。
習わぬ経は読めぬ(ならわぬきょうはよめぬ)
知識や経験のないことは、いくらやれといわれても出来るものではないというたとえ。 習ってもいないお経など、難しくて読めるはずがないとの意から。
年季が入る(ねんきがはいる)
長い年月にわたって経験を積み、技術や腕前がすぐれて確かなものになっていること。また、そのように熟練しているさま。 「年季を入れる」とすれば、経験を積むことをいう。 「年季」は、もと奉公人などを雇うときに定めた年限のことで、一年を一季として数えたことから転じて、長年の経験を意味するようになった。
肌で感じる(はだでかんじる)
自身が直接経験して感じとること。
場数を踏む(ばかずをふむ)
経験を積んで慣れること。
百聞は一見に如かず(ひゃくぶんはいっけんにしかず)
人から繰り返し聞くよりも、一度でも自分の目で見たほうがよくわかるということ。 人の話を百回聞いたところで、実際に一回見ることには及ばないとの意から。
百貫の鷹も放さねば知れぬ(ひゃっかんのたかもはなさねばしれぬ)
大枚をはたいて求めた鷹でも、空へ手放して獲物を追わせてみるまでは、どれほどの腕か知れない。人も物も、現に働かせてみるまでは、その程度を測りようがない。貫は昔の銭の単位。百貫といえば途方もない値である。
故きを温ねて新しきを知る(ふるきをたずねてあたらしきをしる)
昔のことを研究し、そこから新しい知識や道理を発見すること。 「温故知新(おんこちしん)」ともいう。
松かさより年かさ(まつかさよりとしかさ)
かさで比べるなら、松の実の笠より重ねた年の数のほうだ。 「まつかさ」と「としかさ」を並べた言い回しで、長く生きた者の見聞きを立てるときに使う。
目の当たりにする(まのあたりにする)
物事をその場で直接見る。事態や惨状などを自分の目で確かめる。
水に慣れる(みずになれる)
その土地の環境や風土になれること。 からだがその土地の水に馴染むことから。 「慣れる」は「馴れる」とも書く。
三度肘を折って良医となる(みたびひじをおってりょういとなる)
身をもって痛い目に遭った者だけが、他人の痛みの扱い方を覚える。腕も人柄も、読んだり聞いたりでは仕上がらない。 自分の肱ではなく、他人の肱を何度も折ってようやく良医になるという読み方もある。
見ての極楽、住んでの地獄(みてのごくらく、すんでのじごく)
外から見るのと、実際に体験するのでは大違いであることのたとえ。 はたから見ると極楽のように見えるが、実際に住んでみるとまるで地獄のようだとの意から。 「見ては極楽住んでは地獄」ともいう。
身になる(みになる)
相手の立場になってものごとを考えること。 また、知識などが身について、その人のためになること。身体のためになること。
見ぬ商いはならぬ(みぬあきないはならぬ)
手に取って検めもせずに値をつけ合う道理はない。中身をじかに見届けてから話をまとめよという、商いの心得。
見ぬ事は話にならぬ(みぬことははなしにならぬ)
一度見てみないと、人に話せないということ。
耳が肥える(みみがこえる)
多くのよいものを聞き慣れて、音や声のよしあしを見分ける力が高まっていること。 とりわけ音楽や話芸などについて、鑑賞の眼識が確かになっているさま。 「肥える」はここで、経験を積んで感覚が豊かに、鋭くなる意。 多くの良質なものに触れて感覚が育つ様子から生まれた言い回し。
見よう見真似(みようみまね)
教わったおぼえもないまま、そばで眺めているうちに形だけは身についてしまう。 我流の域を出ないと自ら断るときの言い方でもある。
見ると聞くとは大違い(みるときくとはおおちがい)
実際に見るのと人から聞いたのとでは大きな違いがあるということ。また、噂と事実が違うことにもいう。
昔取った杵柄(むかしとったきねづか)
若い頃に習得した技量や腕前のこと。また、年月を経てもそれが衰えず十分に発揮できること。
昔は今の鏡(むかしはいまのかがみ)
昔のことは現代の手本になるので、歴史を学ぶことが将来に役立つということ。
目が肥える(めがこえる)
すぐれた物を数多く見ることで、物の価値を判断する能力が高まること。
門前の小僧、習わぬ経を読む(もんぜんのこぞう、ならわぬきょうをよむ)
毎日その中に置かれていれば、手ほどきを受ける機会が一度もなくても、いつのまにか同じ真似ができる。周りで繰り返されている事柄は、そうと意識しないうちに身の内へ移る。
楽人楽を知らず(らくじんらくをしらず)
苦労を知らない人は安楽のありがたさを知らない。苦労してはじめて、安楽の大切さを知るということ。
猟は鳥が教える(りょうはとりがおしえる)
何事も実際に行っているうちに覚えて、身に付けていくものであるということのたとえ。 鳥を撃つこつは、実際に猟をするうちに覚えるもので、いわば獲物の鳥が教えてくれるようなものだということ。
老馬の智(ろうばのち)
年を重ねた者の知恵は、道に迷ったときの頼りになるということ。 「智」は知恵のこと。 斉の桓公が遠征の帰り道を見失ったとき、管仲が「老いた馬の知恵を借りましょう」と進言し、放った老馬のあとを追っていくと、やがて元の道へ出られたという。 同じ故事を和文でいったのが「老いたる馬は道を忘れず」。
若い時旅をせねば老いての物語がない(わかいときたびをせねばおいてのものがたりがない)
若い時に旅をしておかなければ、年をとってから人に話す話題がないということ。
若い時の苦労は買うてもせよ(わかいときのくろうはこうてもせよ)
若い時の苦労は将来役に立つ貴重な経験となるから、自分から進んで苦労するほうがよいということ。
