「善」を含む故事・ことわざ・慣用句
「善」を含む故事・ことわざ・慣用句の一覧です。五十音順に表示しています。
悪に強きは善にも強し(あくにつよきはぜんにもつよし)
大きな悪事を犯すような悪人ほど、いったん悔い改めれば非常な善人になるということ。
悪人あればこそ善人も顕る(あくにんあればこそぜんにんもあらわる)
悪人がいればこそ善人が目立つということ。
悪の裏は善(あくのうらはぜん)
悪いことのあとにはいいことが起きるということ。善と悪とは表と裏で、悪いことばかりも続かないし、いいことばかりも続かないということ。
牛に引かれて善光寺参り(うしにひかれてぜんこうじまいり)
人に連れられてある場所へ出かけて行くこと。また、自分の意思ではなく他人の誘いによって、よい方向に導かれることのたとえ。 善光寺の近くに住んでいた不信心な老婆が布をさらしていると、その布を牛が角にひっかけて逃げてしまった。老婆は牛を追いかけて善光寺に着き、その縁によって信仰するようになったという故事から。
現世安穏、後生善処(げんぜあんのん、ごしょうぜんしょ)
法華経を信じる人は、この世では安穏に生活でき、あの世ではよい世界に生まれるということ。
正直は最善の策(しょうじきはさいぜんのさく)
正直であることが目的を果たすためには最も良い策であるという教え。
小人閑居して不善をなす(しょうじんかんきょしてふぜんをなす)
小人物は暇を持て余すと、とかくろくでもないことをするということ。「小人」は君子に対する言葉で、人徳や教養のない卑しい者の意。「閑居」は本来「間居」と書き、暇でのんびり暮らすこと。
積善の家には必ず余慶あり(せきぜんのいえにはかならずよけいあり)
善行を積み重ねた家には、その報いとしての幸せが必ず子孫におとずれるということ。「余慶」は、祖先の善行のおかげで、子孫に及ぶ幸福のこと。
善悪の報いは影の形に随うが如し(ぜんあくのむくいはかげのかたちにしたがうがごとし)
影が形に付き随うように、善悪の行為に対する報いは必ずあるということ。
善悪は友による(ぜんあくはともによる)
人はつきあう友人次第で、善くも悪くもなるということ。 「人は善悪の友による」ともいう。
善悪は友を見よ(ぜんあくはともをみよ)
その人が善人か悪人かは、その人が交際している友人を見ればわかるということ。
善に従うこと流るるが如し(ぜんにしたがうことながるるがごとし)
善には善の報い、悪には悪の報い(ぜんにはぜんのむくい、あくにはあくのむくい)
善行にはいずれ天の恵みがあり、悪行にはいずれ天罰が下るという報いがあるということ。
善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや(ぜんにんなおもておうじょうをとぐ、いわんやあくにんをや)
仏の救いを頼みとしない善人でさえ極楽往生を遂げる。まして、仏の救いにすがるしかない悪人が往生できないわけがないということ。
善の裏は悪(ぜんのうらはあく)
いいことのあとには悪いことが起きるということ。善と悪とは表と裏で、いいことばかりも続かないし悪いことばかりも続かないということ。
善は急げ(ぜんはいそげ)
良いことだと思ったら、ためらわずすぐに実行せよということ。
善は急げ悪は延べよ(ぜんはいそげあくはのべよ)
良いことだと思ったら、ただちにに実行せよ。悪いことをしようとする時は、なるべく実行を延ばせということ。
善美を尽くす(ぜんびをつくす)
これ以上ないというほど美しく立派にこしらえること。「善美」は、物事が立派で美しいこと。
善を責むるは朋友の道なり(ぜんをせむるはほうゆうのみちなり)
善い行いをするように勧めるのが、友としての大切な務めだということ。「責むる」は、当然なすべき事を勧めるという意。
人の将に死なんとするその言や善し(ひとのまさにしなんとするそのげんやよし)
人が死に際に語る言葉は真実で純粋なものであるということ。
人は堯舜にあらず、何ぞ事事によく善を尽くさん(ひとはぎょうしゅんにあらず、なんぞことごとによくぜんをつくさん)
人は善悪の友による(ひとはぜんあくのともによる)
人はつきあう友人次第で、善くも悪くもなるということ。 「人は善悪の友による」ともいう。
人は悪かれ我善かれ(ひとはわるかれわれよかれ)
他人がどんなひどい目に遭っても、自分さえよければいいということ。人間は利己的なものだということ。また、そういう人間をあざけっても使う。
百戦百勝は善の善なる者に非ず(ひゃくせんひゃくしょうはぜんのぜんなるものにあらず)
百回戦って百勝しても、何らかの損害がでるので得策とはいえない。戦わずに勝つことが出来れば、それが一番いい方法だということ。
善かれ悪しかれ(よかれあしかれ)
よいにしても、悪いにしても。いずれにしても。