「過」を含む故事・ことわざ・慣用句
「過」を含む故事・ことわざ・慣用句の一覧です。五十音順に表示しています。
過ちて改めざる是を過ちと謂う(あやまちてあらためざるこれをあやまちという)
人は過ちを犯したらすぐに反省して改めるべきであり、過ちを犯して改めようとしないことが本当の過ちであるということ。 「過ちを改めざる是を過ちと謂う」ともいう。
過ちては改むるに憚ること勿れ(あやまちてはあらたむるにはばかることなかれ)
過ちを犯したことに気がついたら、体面や体裁などにとらわれず、すぐに改めるべきだという戒め。
過ちては則ち改むるに憚ること勿れ(あやまちてはすなわちあらたむるにはばかることなかれ)
過ちを犯したことに気がついたら、体面や体裁などにとらわれず、すぐに改めるべきだという戒め。
過ちの功名(あやまちのこうみょう)
過ちや災難と思われていたことが、偶然にもよい結果になることのたとえ。 「怪我」は、ここでは過ちや災難のこと。 過ちや災難が生んだ手柄との意から。 「過ちの功名」ともいう。
過ちは好む所にあり(あやまちはこのむところにあり)
過ちは、自分の好きな事や得意な事をしている時に、つい油断して起こるということ。
過ちは人の常、許すは神の業(あやまちはひとのつね、ゆるすはかみのわざ)
人は誰でも過ちを犯すものなので、むやみに人を責めてはいけないということ。 「過ちは人の常、許すは神の業」ともいう。
過ちを改めざる是を過ちと謂う(あやまちをあらためざるこれをあやまちという)
人は過ちを犯したらすぐに反省して改めるべきであり、過ちを犯して改めようとしないことが本当の過ちであるということ。 「過ちを改めざる是を過ちと謂う」ともいう。
過ちを文る(あやまちをかざる)
過ちを取り繕うために、あれこれ言い訳をしてごまかそうとすること。「文る」は飾るで、取り繕うという意。
過ちを観て斯に仁を知る(あやまちをみてここにじんをしる)
人の過ちの種類を観察することによって、その人の人柄がわかるということ。
過ちを観て仁を知る(あやまちをみてじんをしる)
人の過ちの種類を観察することによって、その人の人柄がわかるということ。
過つは人の性、許すは神の心(あやまつはひとのさが、ゆるすはかみのこころ)
人は誰でも過ちを犯すものなので、むやみに人を責めてはいけないということ。 「過ちは人の常、許すは神の業」ともいう。
一朝の怒りに一生を過つ(いっちょうのいかりにいっしょうをあやまつ)
一時的な怒りのために我を忘れて行動すること。 また、そのような行動は身を滅ぼすことになるという戒め。 「一朝の怒りに一生を過つ」ともいう。
命に過ぎたる宝なし(いのちにすぎたるたからなし)
命以上に大切なものはこの世にないということ。
思い半ばに過ぎる(おもいなかばにすぎる)
考えてみると思いあたるふしが多く、十分に推し量ることができるということ。 思い当たるところが全体の半分以上あるとの意から。
思い半ばに過ぐ(おもいなかばにすぐ)
考えてみると思いあたるふしが多く、十分に推し量ることができるということ。 思い当たるところが全体の半分以上あるとの意から。
薬も過ぎれば毒となる(くすりもすぎればどくとなる)
どんなによいものでも、度が過ぎれば害になるというたとえ。 病気を治すための薬も、適量以上に飲めば害になることから。
口が過ぎる(くちがすぎる)
相手に対して、言わなくてもいいことや失礼なことを言うことのたとえ。
君子の過ちは日月の食のごとし(くんしのあやまちはじつげつのしょくのごとし)
君子はたとえ過ちを犯すようなことがあっても、日食や月食が一時的なように、すぐに改めてもとの徳性に返るものだということ。
喧嘩過ぎての空威張り(けんかすぎてのからいばり)
喧嘩の最中は意気地なくこそこそし、喧嘩が終わったとたん虚勢を張って強がること。 「喧嘩過ぎての向こう鉢巻」ともいう。
喧嘩過ぎての棒乳切り(けんかすぎてのぼうちぎり)
時機に遅れて何の役にも立たないことのたとえ。 「棒乳切り」は棒の切れ端のこと。 喧嘩が終わってから、棒切れを持ち出しても役に立たないことから。 「争い果てて」は「諍い果てて」や「喧嘩過ぎて」、「棒乳切り」は「乳切り木(千切り木)」などともいう。
喧嘩過ぎての向こう鉢巻(けんかすぎてのむこうはちまき)
喧嘩の最中は意気地なくこそこそし、喧嘩が終わったとたん虚勢を張って強がること。 「喧嘩過ぎての向こう鉢巻」ともいう。
言葉が過ぎる(ことばがすぎる)
相手に対して、言わなくてもいいことや失礼なことを言うことのたとえ。
子に過ぎたる宝なし(こにすぎたるたからなし)
子どもは最上の宝であるということ。 「子に勝る宝なし」ともいう。
四十過ぎての道楽と七つ下がって降る雨は止みそうで止まぬ(しじゅうすぎてのどうらくとななつさがってふるあめはやみそうでやまぬ)
中年になってから始めた道楽と、七つ下がりに降り出した雨は、なかなかやまないということ。「七つ下がり」は午後四時過ぎのこと。
駟の隙を過ぐるが若し(しのげきをすぐるがごとし)
月日が経つのが非常に早いことのたとえ。 「駟」は四頭立ての馬車。 四頭立ての馬車が走り去るのを、戸の隙間からのぞき見るのと同じくらい、時の流れはあっという間であるということ。
小人の過つや必ず文る(しょうじんのあやまつやかならずかざる)
信心過ぎて極楽を通り越す(しんじんすぎてごくらくをとおりこす)
信心も度を越すと迷信や邪道に陥ってかえって害になるということ。
過ぎたるは猶及ばざるが如し(すぎたるはなおおよばざるがごとし)
物事の度が過ぎると、足りないのと同じくらい良くないので、何事もほどほどが最良だということ。
千軒あれば共過ぎ(せんげんあればともすぎ)
家が千軒もあれば、そこに住む人たちがそれぞれ商売をしたり互いに物の売り買いをしたりして、ともに生計を立てていくことができるということ。 「共過ぎ」は、人々が互いに助け合って生活していくこと。 「千軒あれば共暮らし」ともいう。
大功を論ずる者は小過を録せず(たいこうをろんずるものはしょうかをろくせず)
大きな功績を表彰しようと議論する時、たとえそのかげに小さな過失があっても大目に見て問題にしないということ。
談義説法は出家の身過ぎ(だんぎせっぽうはしゅっけのみすぎ)
ありがたい談義や説法も、結局は僧侶が生計を立てる手段でしかないということ。 「生計」は「身過ぎ」ともいう。
十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人(とおでしんどう、じゅうごでさいし、はたちすぎればただのひと)
子どものころは並外れた秀才と思われていた人も、成長すれば平凡な人間になることが多いということ。
度が過ぎる(どがすぎる)
程度が許容される限度を越えていること。
度を過ごす(どをすごす)
適切とされる程度を越えること。やりすぎること。
七つ下がりの雨と四十過ぎての道楽はやまぬ(ななつさがりのあめとしじゅうすぎてのどうらくはやまぬ)
七つ下がりから降り出した雨と、中年になってから覚えた道楽はなかなかやまないということ。「七つ下がり」は午後四時過ぎのこと。
喉元過ぎれば熱さを忘れる(のどもとすぎればあつさをわすれる)
苦しいことも過ぎてしまえば忘れてしまうことのたとえ。また、苦しい時に受けた恩義も楽になったら忘れてしまうことのたとえ。 熱いものを飲んでも、のどを過ぎれば口に入れた時の熱さを忘れてしまうことから。
二十過ぎての意見と彼岸過ぎての肥はきかぬ(はたちすぎてのいけんとひがんすぎてのこえはきかぬ)
白駒の隙を過ぐるが如し(はっくのげきをすぐるがごとし)
月日の過ぎるのが、きわめて早いことのたとえ。 「白駒」は白い馬、「隙」は壁のすき間のこと。 人の一生は、白い馬が走り過ぎるのを壁のすき間からちらっと見るようなものだとの意から。
彼岸過ぎての麦の肥、三十過ぎての男に意見(ひがんすぎてのむぎのこえ、さんじゅうすぎてのおとこにいけん)
人の過ち我が幸せ(ひとのあやまちわがしあわせ)
口には出せないが、他人の失敗は、自分には幸せなのだということ。
二人口は過ごせるが一人口は過ごせぬ(ふたりぐちはすごせるがひとりぐちはすごせぬ)
結婚して二人で暮らせば節約できることが多くなり、無駄が多くなりがちな一人暮らしよりも経済的であるということ。 「二人口は過ごせるが一人口は過ごせぬ」ともいう。
分別過ぐれば愚に返る(ふんべつすぐればぐにかえる)
あまり深く考え過ぎると、かえって失敗するということ。「分別」は思慮の意。
学ぶのに年をとり過ぎたということはない(まなぶのにとしをとりすぎたということはない)
身過ぎは草の種(みすぎはくさのたね)
商売や職業などの暮らしを立てる方法は、草の種のように種類が多いということ。 「商売は草の種」「世渡りは草の種」「世渡りは草の種」「身過ぎは草の種」ともいう。
身に過ぎた果報は災いの基(みにすぎたかほうはわざわいのもと)
分不相応の幸福は、かえって不幸を招くもとになるから、分相応な幸せがよいということ。「果報」は幸運の意。
見に過ぎる(みにすぎる)
人から与えられた待遇などが、自分の能力以上であること。身分に相応しくないこと。
夜食過ぎての牡丹餅(やしょくすぎてのぼたもち)
時機を逸して値打ちがなくなったり、ありがたみが薄れてしまうことのたとえ。夜の食事が終わったあとに牡丹餅をもらってもあまりうれしくないことから。
礼も過ぎれば無礼になる(れいもすぎればぶれいになる)
礼儀も度が過ぎれば、かえって失礼になるということ。
若気の過ち(わかげのあやまち)
若さから思慮に欠けた行動をしたために起こった失敗。