「里」を含む故事・ことわざ・慣用句
「里」を含む故事・ことわざ・慣用句の一覧です。五十音順に表示しています。
赤子のうちは七国七里の者に似る(あかごのうちはななくにななさとのものににる)
赤ん坊ははっきりした特長がないので、似てると思って見ればあちこちの誰にでも似て見えるということ。「七国七里」は諸所方々のこと。
悪事、千里を走る(あくじ、せんりをはしる)
悪い行いは、たちまち世間に広まるというたとえ。 「悪事、千里を行く」ともいう。
悪事、千里を行く(あくじせんりをいく)
悪い行いは、たちまち世間に広まるというたとえ。 「悪事、千里を行く」ともいう。
朝茶は七里帰っても飲め(あさちゃはしちりかえってものめ)
朝の茶は一日の災難よけなので、飲み忘れて旅立ちしたら、たとえ七里の道を戻ってでも飲むべきだということ。
一時違えば三里の遅れ(いっときちがえばさんりのおくれ)
少しの間でもぐずぐずしていると、たちまち大きな差が開くということ。 「一時」は約二時間、「三里」は約十二キロメートル。 一時遅れると、旅程に三里の遅れが出るとの意から。 「ひととき」は「いっとき」ともいう。 また「一時三里」ともいう。
牛も千里馬も千里(うしもせんりうまもせんり)
早い遅い、上手い下手の違いがあっても結局は同じところに到達するというたとえ。牛がゆっくりと歩いても馬が早く走っても千里の道のりはやはり千里で、同じ目的地に着くことから。
縁あれば千里(えんあればせんり)
縁があれば千里も離れた所の人と会うこともあるし、結ばれることもあるということ。「縁あれば千里を隔てても会い易し、縁なければ面を対しても見え難し」を略した言葉。
お里が知れる(おさとがしれる)
言葉遣いや立ち居振る舞いから、その人の生まれや育ちがわかるということ。 よくない意味で用いられる。
門松は冥土の旅の一里塚(かどまつはめいどのたびのいちりづか)
門松はめでたいものだが、飾るたびに年を重ね死に近づくので、いわばあの世に向かう一里塚のようなものだということ。 「冥土」は、あの世のこと。 「一里塚」は、街道に一里ごとに築かれ、旅人のための里程標となった塚のこと。 この歌は一休作という説があり、このあとに「めでたくもありめでたくもなし」と続けてもいわれる。
門松は冥途の旅の一里塚(かどまつはめいどのたびのいちりづか)
門松はめでたいものだが、飾るたびに年を重ね死に近づくので、いわばあの世に向かう一里塚のようなものだということ。 「冥土」は、あの世のこと。 「一里塚」は、街道に一里ごとに築かれ、旅人のための里程標となった塚のこと。 この歌は一休作という説があり、このあとに「めでたくもありめでたくもなし」と続けてもいわれる。
好事門を出でず、悪事千里を行く(こうじもんをいでず、あくじせんりをいく)
善い行いは、なかなか世間に知られず、悪い行いは、すぐに世間に知れ渡るということ。
酒屋へ三里、豆腐屋へ二里(さかやへさんり、とうふやへにり)
生活するのに非常に不便な場所のこと。 酒屋へは三里、豆腐屋へは二里の道のりがある場所のことから。
囁き千里(ささやきせんり)
内緒話は漏れやすく、すぐに遠くまで伝わってしまうということ。 小声でひそひそ話したことが、またたく間に遠く千里も離れた所にまで伝わるとの意から。
里心が付く(さとごころがつく)
他所へ行った人が実家や故郷が恋しくなって帰りたいという気持ちになること。
駿河の富士と一里塚(するがのふじといちりづか)
かけ離れていて比較にならないことのたとえ。 「一里塚」は、街道の一里の目印として土を小高く盛って作った塚のこと。 形は似ていても大きさのかけ離れた一里塚と富士山を比べるとの意から。
千里眼(せんりがん)
遠くの出来事や将来のこと、人の心の中を見通す能力のこと。また、その能力を持つ人のこと。 中国後魏の楊逸は、情報網をめぐらして遠方の情報をつかんでいたので、人々が「千里の遠くまで見通す眼を持っている」と驚いたという故事から。
千里の馬は常にあれども伯楽は常にはあらず(せんりのうまはつねにあれどもはくらくはつねにはあらず)
有能な人材はいつの世にもいるが、その能力を見出して育てる優れた指導者は少ないということのたとえ。 「千里の馬」は、一日に千里も走れるほどの優れた馬。転じて、優れた才能の人物。 「伯楽」は牛馬の良し悪しを見分ける名人のこと。転じて、人物を見抜いて、その才能を引き出し育てる優れた指導者のこと。 いつの時代にも、一日に千里を走るほどの優れた馬はいるが、その名馬の能力を引き出す伯楽は、いつもいるわけではないということから。
千里の馬も蹴躓く(せんりのうまもけつまずく)
優れた才能の人物も時には失敗することもあるというたとえ。「千里の馬」は、一日に千里も走れるほどの優れた馬。転じて、優れた才能の人物。
千里の馬も伯楽に会わず(せんりのうまもはくらくにあわず)
有能な人も、その真価を見抜いて能力を引き出してくれる人とはなかなか出会えないということ。「千里の馬」は、一日に千里も走れるほどの名馬。転じて、優れた才能の人物。「伯楽」は牛馬の良し悪しを見分ける名人のこと。転じて、人物を見抜いて、その才能を引き出し育てる優れた指導者のこと。
千里の行も足下より始まる(せんりのこうもそっかよりはじまる)
大きな目標・目的を達成するためには、身近なことからこつこつと努力を積み重ねていくことが大切であるということ。 千里の道のりも踏み出した一歩から始まるとの意から。 「千里の行も足下より始まる」ともいう。
千里の堤も蟻の穴から(せんりのつつみもありのあなから)
わずかな油断や不注意が元で大事を引き起こすというたとえ。 千里の堤防も蟻の穴が原因で崩れることもあるとの意から。
千里の野に虎を放つ(せんりののにとらをはなつ)
災いのもとになりそうな危険なものを放っておくことのたとえ。 広い野原に虎を野放しにするとの意から。 「虎を野に放つ」ともいう。
千里の道も一歩から(せんりのみちもいっぽから)
大きな目標・目的を達成するためには、身近なことからこつこつと努力を積み重ねていくことが大切であるということ。 千里の道のりも踏み出した一歩から始まるとの意から。 「千里の行も足下より始まる」ともいう。
千里一跳ね(せんりひとはね)
大きな鳥があっという間に千里も飛んでしまうように、物事を一気に行って大成功することのたとえ。
大声は里耳に入らず(たいせいはりじにいらず)
高尚な理論は俗人にはなかなか理解されにくいということ。 「大声」は高尚な音楽、「里耳」は俗人の耳のこと。 高尚な音楽は俗人にはわからないとの意から。
籌策を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外に決す(ちゅうさくをいあくのなかにめぐらし、かちをせんりのほかにけっす)
計画や戦略の巧妙なことのたとえ。 「籌」は計略、「帷幄」は幕を張りめぐらした本陣、「千里の外」は遠い場所のこと。 本陣で計略を練り、遠く離れた戦場で勝利するとの意から。 「籌策を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外に決す」ともいう。
寺から里へ(てらからさとへ)
物事があべこべなことのたとえ。筋違いなことのたとえ。「里」は、檀家の意。檀家から寺へ供物を届けるのが当たり前なのに、寺から檀家へ物を贈るのは逆であることから。
虎は千里行って千里帰る(とらはせんりいってせんりかえる)
勢いが盛んで力強い行動力のたとえ。また、また、子を思う親の愛情深い行動力のたとえ。虎は一日に千里の道を進み、その後、再び同じ距離を戻ってくると言われることから。
虎は千里往って千里還る(とらはせんりいってせんりかえる)
勢いが盛んで力強い行動力のたとえ。また、また、子を思う親の愛情深い行動力のたとえ。虎は一日に千里の道を進み、その後、再び同じ距離を戻ってくると言われることから。
虎は千里の藪に栖む(とらはせんりのやぶにすむ)
優れたものは、広々として奥深い所にいるということ。虎は千里もあるような広い藪にすんでいるということから。
鳥なき里の蝙蝠(とりなきさとのこうもり)
強い者や優れた者がいないところで、つまらない者が威張っていることのたとえ。 鳥がいない所では、蝙蝠が幅をきかせて鳥のように飛び回るということから。
七つ七里憎まれる(ななつななさとにくまれる)
七歳頃の男の子はいたずら盛りで、近くの村々の憎まれっ子になるということ。「七里」は、多くの村々の意。
籌を帷幄に運らし、勝ちを千里の外に決す(はかりごとをいあくにめぐらし、かちをせんりのほかにけっす)
計画や戦略の巧妙なことのたとえ。 「籌」は計略、「帷幄」は幕を張りめぐらした本陣、「千里の外」は遠い場所のこと。 本陣で計略を練り、遠く離れた戦場で勝利するとの意から。 「籌策を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外に決す」ともいう。
春の晩飯後三里(はるのばんめしあとさんり)
春は晩飯を食べたあとでも三里の道を歩けるほど日が長いということ。 「春の夕飯食って三里」ともいう。
春の夕飯食って三里(はるのゆうめしくってさんり)
春は晩飯を食べたあとでも三里の道を歩けるほど日が長いということ。 「春の夕飯食って三里」ともいう。
飛脚に三里の灸(ひきゃくにさんりのきゅう)
勢いのあるものにさらに勢いをつけるたとえ。「三里」は、膝頭の下の灸点で、ここに灸をすえると足を丈夫にするといわれている。足の速い飛脚が三里に灸をすえれば、さらに足が強くなることから。
一時違えば三里の遅れ(ひとときちがえばさんりのおくれ)
少しの間でもぐずぐずしていると、たちまち大きな差が開くということ。 「一時」は約二時間、「三里」は約十二キロメートル。 一時遅れると、旅程に三里の遅れが出るとの意から。 「ひととき」は「いっとき」ともいう。 また「一時三里」ともいう。
百里来た道は百里帰る(ひゃくりきたみちはひゃくりかえる)
自分のしたことには、必ずそれなりの報いがあるということ。 百里歩いてきた道は、百里歩かなければもとの場所には戻れないとの意から。
百里を行く者は九十里を半ばとす(ひゃくりをいくものはくじゅうりをなかばとす)
何事も終わり近くになると困難が多くなるので、最後まで気を抜いてはいけないということ。 百里の道を行く者は、九十里来たところが半分だと思えとの意から。
惚れて通えば千里も一里(ほれてかよえばせんりもいちり)
惚れた相手に会いに行く時は、どんな遠い道のりも近く思えて苦にはならないということ。この後に「逢わずに戻ればまた千里」と続く俗謡から。
昔千里も今一里(むかしせんりもいまいちり)
すぐれた人も、年をとれば凡人に劣ってしまうということ。 昔は千里を行くことができた駿馬も、今では一里しか行くことができないとの意から。
有知無知三十里(ゆうちむちさんじゅうり)
知恵のある者と知恵のない者には、大きな差があることのたとえ。 魏の曹操が楊脩を従えて曹娥の墓碑のそばを通ったとき、碑文の意味を楊脩はすぐに理解できたが、曹操は三十里先でやっと理解できたという故事から。
預言者郷里に容れられず(よげんしゃきょうりにいれられず)
優れた人物であっても、身近な人には認められず尊敬されにくいということ。 すぐれた預言者も、子どもの頃からよく知っている人たちにとっては、普通の人しか思えないため尊ばれないとの意から。