「の」を含む故事・ことわざ・慣用句
「の」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 2175 件
死馬の骨を買う(しばのほねをかう)
すぐれた人材を集めるために、つまらないものでも優遇することのたとえ。 昔、名馬を買うために出かけた使者が大金を払って死んだ名馬の骨を買って帰った。その行動に王は怒ったが、使者は「死んだ馬の骨に大金を投じれば、必ず生きた名馬を売りに来る者が現れるでしょう」と言った。その言葉通り、一年も経たないうちに王のもとに三頭の名馬が集まってきたという故事に基づく。
四百四病の外(しひゃくしびょうのほか)
恋わずらいのこと。「四百四病」は人間のかかるあらゆる病気のことで、それ以外の病という意味から。
四百四病より貧の苦しみ(しひゃくしびょうよりひんのくるしみ)
人間のかかるあらゆる病気より貧乏のほうがつらいということ。
渋柿の長持ち(しぶがきのながもち)
何の取り柄もない人や悪人が長生きすることのたとえ。そのまま食べられない渋柿は人に採られることなく長く木に残っているということから。
しめこの兎(しめこのうさぎ)
物事がうまくいったということをしゃれて言うことば。
下いびりの上へつらい(しもいびりのかみへつらい)
自分より下の者にいばる人間は、上の者には媚びへつらうものだということ。
社会の木鐸(しゃかいのぼくたく)
世間の人々を教え導く人。または、世論を喚起して導く存在としてのジャーナリズムの重要性を表した言葉。 「木鐸」は古代中国で人々に法令を知らせるために鳴らした木製の鈴。転じて、世間の人々を教え導く人のこという。
癪の種(しゃくのたね)
怒りの原因となるもの。腹が立つ元。
社稷の臣(しゃしょくのしん)
国家の命運を一身に引き受けて、事に当たる重臣。「社稷」は、土地の神と五穀の神。これを国の尊崇する神として祭ったことから転じて、国家の意。
習慣は第二の天性なり(しゅうかんはだいにのてんせいなり)
習慣はいつしか深く身について、まるで生まれつきの性質のように日常生活に影響を及ぼすということ。
宗旨の争い釈迦の恥(しゅうしのあらそいしゃかのはじ)
仏教の教えはすべて釈迦が発しているのだから、宗派間の争いは開祖である釈迦の恥になるということ。宗派間の争いの愚かさをあざけっていう言葉。
舅の物で相婿もてなす(しゅうとのものであいむこもてなす)
自分のふところは痛めずに、人の物を相手にふるまう、ちゃっかりとした行いのたとえ。「相婿」は姉妹の夫どうしのこと。舅のふるまいで出された料理や酒を、相婿が勧め合う意から。「舅の酒で相婿もてなす」
姑の十七、見た者ない(しゅうとめのじゅうしち、みたものない)
姑は自分の若い頃のことを引き合いに出して嫁に小言を言うが、誰も姑の若い時を知らないので当てにはならないということ。
衆目の一致する所(しゅうもくのいっちするところ)
大勢の見方や評価などが同じであること。
衆を頼む(しゅうをたのむ)
人数が多いことを利用して強引に行うこと。
祝融の災い(しゅくゆうのわざわい)
火事の災難のこと。「祝融」は、火をつかさどる神から転じて火事の意。
出家の念仏嫌い(しゅっけのねんぶつぎらい)
もっとも大切なことが嫌いだったり、出来なかったりすることのたとえ。 僧となって仏道を修行する者が念仏を唱えるのが嫌いとの意から。
出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ)
弟子が師より優れていることのたとえ。 藍草から作られた染料の青色が、元となる藍草よりも青く美しいことから。 「出藍の誉れ」ともいう。
春秋の筆法(しゅんじゅうのひっぽう)
物事を厳格に批判する態度。また、間接の原因を直接の原因のように言う表現方法。「春秋」は、中国の歴史書で孔子が加筆し、その書き方が厳正だったことから。
小寒の氷大寒に解く(しょうかんのこおりだいかんにとく)
物事が必ず順に従って進むわけではないということのたとえ。 最も寒いはずの大寒が小寒よりも温かいとの意から。
しょう事なしに米の飯(しょうことなしにこめのめし)
貧しさのため、かえって不経済な生活をしなければならないことのたとえ。また、一つしか取り柄がないので、やむなくその事を自慢するたとえ。「しょう事なし」は、どうしたらいいのか、適当な方法がみつからないこと。麦飯のほうが安上がりだが、新たに麦を買う金がないので、仕方なく持っている米の飯を食べるということから。
正直の頭に神宿る(しょうじきのこうべにかみやどる)
正直な人には必ず神の助けがあるということ。
正直は阿呆の異名(しょうじきはあほうのいみょう)
融通のきかない正直は、世渡りがへたな愚か者のすることであるということ。
正直は一生の宝(しょうじきはいっしょうのたから)
正直者は人から信頼され、それによって成功や幸福を手にすることができる。正直こそ一生を通じて大切に守るべき宝だというたとえ。
正直は最善の策(しょうじきはさいぜんのさく)
正直であることが目的を果たすためには最も良い策であるという教え。
正直者が馬鹿を見る(しょうじきものがばかをみる)
ずる賢く立ち回る者が得をして、正直に規則や秩序を守る者が損をするというたとえ。
掌中の珠(しょうちゅうのたま)
もっとも大切にしているもの。特に最愛の子ども。「珠」は尊いものの意で、いつも自分の手の中にある大切なものということから。
小の虫を殺して大の虫を助ける(しょうのむしをころしてだいのむしをたすける)
小さなものを犠牲にして大きなものを守ること。 また、全体を生かすために一部分を犠牲にすることのたとえ。 「大の虫を生かして小の虫を殺す」ともいう。
焦眉の急(しょうびのきゅう)
危険が差し迫っていること。また、事態が切迫していること。 「焦眉」は眉毛がこげること。 眉毛がこげるほど近くまで火が迫っているとの意から。 「眉(眉毛)に火がつく」ともいう。
勝負は時の運(しょうぶはときのうん)
勝負はその時々の運によるもので、必ずしも実力通りに決まるものではないということ。 「勝負は時のはずみ」「勝つも負けるも時の運」「勝つも負けるも運次第」「負けるも勝つも時の運」「負けるも勝つも運次第」などともいう。
証文が物を言う(しょうもんがものをいう)
いざという時には証文が効果を発揮するということ。
食後の一睡、万病円(しょくごのいっすい、まんびょうえん)
食後のひと眠りはからだによいというたとえ。「万病円」は、万病に効果があるといわれる丸薬。
食後の一睡、万病丹(しょくごのいっすい、まんびょうたん)
食後のひと眠りはからだによいというたとえ。「万病丹」は、万病に効果があるといわれる丸薬。
触手を伸ばす(しょくしゅをのばす)
望むものを手に入れるために働きかけること。
食膳に上る(しょくぜんにのぼる)
食事として出ること。
食を願わば器物(しょくをねがわばうつわもの)
物事を行うためには準備の必要があるということ。 食べ物を求めるには入れるための器が必要ということから。
白髪は冥土の使い(しらがはめいどのつかい)
年をとって増えてくる白髪は、死が近づきつつある証拠であるということ。
白豆腐の拍子木(しらどうふのひょうしぎ)
見かけは立派でも、実際は役に立たないもののたとえ。豆腐で作った拍子木が使えるはずがないことから。
知らぬ顔の半兵衛(しらぬかおのはんべえ)
知っているのに知らない振りをすることを「半兵衛」という人名を使って言った言葉。
知らぬ神より馴染みの鬼(しらぬかみよりなじみのおに)
親しくない善良な人よりも、欠点やくせがあったとしても身近な人のほうが頼りになるというたとえ。 知らない神様より、よく知っている鬼のほうがいいとの意から。 「知らぬ仏より馴染みの鬼」ともいう。
白羽の矢が立つ(しらはのやがたつ)
多くの人の中から特別に選び出されること。人身御供として選んだ少女の家の屋根に、神が人知れずしるしの白羽の矢を立てたという俗説から。
芝蘭の室に入るが如し(しらんのしつにいるがごとし)
立派な人と交際すると、自然とその人のよい影響を受けるというたとえ。 芝と蘭のある部屋に入ると、いつの間にかそのよい香りが身に染みつくとの意から。
尻馬に乗る(しりうまにのる)
深く考えずに、他人の言動に同調して行動することのたとえ。 他人の乗っている馬に同乗することから。
尻の穴が小さい(しりのあながちいさい)
心が狭いこと。度量が狭いこと。 「尻」は「けつ」とも読む。
尻の毛まで抜かれる(しりのけまでぬかれる)
利用されて全て騙し取られること。
尻の持って行き場がない(しりのもっていきばがない)
不平や不満、苦情などを訴える所がないこと。
知る者は言わず言う者は知らず(しるものはいわずいうものはしらず)
物事を本当に知っている人はむやみに口に出さないが、よく知らぬ者にかぎって軽々しくしゃべるということ。
吝ん坊の柿の種(しわんぼうのかきのたね)
けちな人は、どんなつまらない物でも惜しがって手離さないことのたとえ。 「吝ん坊」は、けちん坊。けちん坊は何の値打ちも無い柿の種さえも惜しがるとの意から。
信心は徳の余り(しんじんはとくのあまり)
信心は生活にゆとりがあって初めてできるものだということ。
薪水の労(しんすいのろう)
炊事などの労働。転じて、人のために骨身を惜しまず働くこと。薪を採り水を汲む苦労の意から。
親戚の泣き寄り(しんせきのなきより)
親戚は普段はあまり関わりがなくても、不幸があると集まって一緒に悲しむということ。
死んだ子の年を数える(しんだこのとしをかぞえる)
今更どうしようもない過去のことを愚痴ったり後悔したりすることのたとえ。 死んでしまった子が今生きていたら何歳になるだろうかと、年を数えて嘆くとの意から。 「死児の齢を数える」ともいう。
死んでの長者より生きての貧乏(しんでのちょうじゃよりいきてのびんぼう)
死後に金持ちになるより、貧乏でも生きているほうがよいということ。
死んで花実が咲くものか(しんではなみがさくものか)
人間死んでしまえば万事おしまいである。どんな状況にあっても、生きていればこそいいこともあるということ。死んだ木に花が咲いたり実がなったりしないことから。
真の闇より無闇が怖い(しんのやみよりむやみがこわい)
真っ暗な闇はもちろん怖いが、それよりも無闇やたらに何をしでかすかわからない人間の方がもっと怖いということ。
心腹の友(しんぷくのとも)
心の内を許し合った最も親しい友人のこと。「心腹」は、胸と腹。転じて、心から頼りにすること。
心腹の病(しんぷくのやまい)
やっかいな敵のこと。「心腹」は胸と腹のことで、胸と腹の病は治しにくいことから。
自家薬籠中の物(じかやくろうちゅうのもの)
いつでも自分の思うままににできる人や物のたとえ。 また、すっかり身につけた知識や技術のたとえ。 「自家」は自分のこと。「薬籠」は薬箱のこと。 自分の薬箱の薬のように、いつでも自分の思いのままに使えるもののことから。
時間の問題(じかんのもんだい)
結果がほぼ分かっていて、そのままの状態で近いうちにその結果になるだろうという状態。
地獄極楽はこの世にあり(じごくごくらくはこのよにあり)
善悪の報いはあの世に行くまでもなく、この世ではっきりと現れるということ。
地獄の一丁目(じごくのいっちょうめ)
きわめて恐ろしい所のたとえ。また、悪の道や破滅に向かう始まりのたとえ。「一丁目」は入り口の意。
地獄の上の一足飛び(じごくのうえのいっそくとび)
きわめて危険な行為のたとえ。
地獄の釜の蓋も開く(じごくのかまのふたもあく)
正月の16日と盆の16日は、みな仕事をやめて休もうということ。この両日は、地獄の鬼も仕事を休み、罪人を煮る釜の蓋も開けて使わないということから。
地獄の沙汰も金次第(じごくのさたもかねしだい)
この世の事は、すべて金の力でどうにでもなるということのたとえ。 地獄の裁判も金を出せば有利になるとの意から。
地震の時は竹薮に逃げろ(じしんのときはたけやぶににげろ)
地震の時は竹やぶが避難場所としてすぐれているということ。竹は根を広く張っているいるため地割れが少なく、竹は倒れにくく、もし倒れても軽いため怪我が少ないことなど、経験からいわれている言葉。
爾汝の交わり(じじょのまじわり)
きわめて親密な交わりのたとえ。「爾汝」は、お前・貴様の意。相手をお前・貴様と遠慮なく呼び合うような親しい交際の意から。
児孫のために美田を買わず(じそんのためにびでんをかわず)
子孫に財産を残せば、それに頼って努力をしないのであえて財産を残さないということ。西郷隆盛の詩の一節。
自分の盆の窪は見えず(じぶんのぼんのくぼはみえず)
自分の欠点はわからないことのたとえ。「盆の窪」は首の後部中央のくぼんだ所。
自慢高慢、馬鹿のうち(じまんこうまん、ばかのうち)
自慢や高慢な態度は愚かしいということ。
自慢高慢酒の燗(じまんこうまんさけのかん)
自慢や高慢、酒の燗もいい加減にしておくのがいいということ。
自慢の糞は犬も食わぬ(じまんのくそはいぬもくわぬ)
誰にも相手にされないこと。 自慢をする者はまわりの人に嫌われ、糞をかぎ回る犬でさえ、そういう人間の糞は避けるという意味から。
自慢は知恵の行き止まり(じまんはちえのいきどまり)
自慢をするようになると、進歩はもう望めないということ。
自明の理(じめいのり)
証明や説明の必要がないほどにわかりきっていること。
蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)
同類のことは同類が一番よくわかるというたとえ。 蛇の通る道は、他の蛇がよく知っているとの意から。
蛇は寸にして人を呑む(じゃはすんにしてひとをのむ)
優れた人物は、幼い頃から常人とは違ったところがあるというたとえ。大蛇はわずか一寸ほどの頃から、人間をのみ込もうとする気迫を持っているということから。
十三日の金曜日(じゅうさんにちのきんようび)
西洋で不吉とされて忌み嫌われる日のこと。キリストが弟子のユダに裏切られた日が十三日の金曜日だった、など俗説はいろいろある。
十年一日の如し(じゅうねんいちじつのごとし)
長い年月が経っても、少しも変わらず同じ状態である様子。 十年経っても、最初の一日と同じであるとの意から。
重箱の隅は杓子で払え(じゅうばこのすみはしゃくしではらえ)
些細な事に必要以上に干渉せずに大目に見るべきということのたとえ。重箱の隅を杓子で払うと隅に残るということから。
重箱の隅を楊枝でほじくる(じゅうばこのすみをようじでほじくる)
どうでもいいようなつまらない所まで取り上げて、口うるさく言うことのたとえ。 「楊枝で重箱の隅をほじくる」「楊枝で重箱の隅をつつく」「小楊枝で重箱の隅をほじくる」「重箱の隅を突っつく」などともいう。
十目の見る所、十指の指さす所(じゅうもくのみるところ、じっしのゆびさすところ)
多くの人が一致して認めること。 十人の目が見て、十人の指が指し示す所との意から。 「十指の指す所」「十目の視る所、十手の指す所」ともいう。
