「信仰」に関連する故事・ことわざ・慣用句 — 90 件
「信仰」に関連する故事・ことわざ・慣用句を一覧で紹介します。各語を選択すると意味・読み方などの詳細を確認できます。全90件を五十音順に掲載しています。
ことわざ一覧(五十音順)
朝題目に宵念仏(あさだいもくによいねんぶつ)
しっかりとした考えをもたないことのたとえ。 朝は日蓮宗の南無妙法蓮華経の題目を唱え、夕方は浄土宗の南無阿弥陀仏の念仏を唱えることから。 「朝題目に夕念仏」ともいう。
あの世の千日、この世の一日(あのよのせんにち、このよのいちにち)
あの世の極楽で千日暮らすより、この世で一日でも楽しむほうがよいということ。
阿弥陀の光も金次第(あみだのひかりもかねしだい)
金の力は絶大だというたとえ。 阿弥陀仏の御利益も供える金の多少に影響されるということから。 「阿弥陀の光も銭次第」「阿弥陀も銭で光る」ともいう。
伊勢へ七度、熊野へ三度(いせへななたび、くまのへみたび)
信仰心が深いことのたとえ。 伊勢神宮へ七度、熊野三山へ三度もお参りするほど信仰深いとの意から。 このあと続けて「愛宕(あたご)様へは月参り」ともいう。
韋駄天走り(いだてんばしり)
非常に速く走ること。 「韋駄天」は、非常に足が速いとされる仏法の守護神。 その韋駄天のような速さで走るとの意から。
一樹の陰一河の流れも他生の縁(いちじゅのかげいちがのながれもたしょうのえん)
この世で起こるすべての出来事は、すべて前世からの因縁によるものなので大切にしなければならないということ。 同じ木の陰で雨宿りをしたり、同じ流れの水を飲んだりするといった、偶然のちょっとした出来事も、すべて前世からの縁によるものであるとの意から。 「一河の流れを汲むも他生の縁」ともいう。
祈らずとても神や守らん(いのらずとてもかみやまもらん)
行いが正しく慎み深ければ、ことさら神に祈らなくても自然に神の加護があるものだということ。 菅原道真の作といわれる「心だに誠の道に叶いなば祈らずとても神や守らん」より出た言葉。
祈るより稼げ(いのるよりかせげ)
困難に直面した時は、神仏に祈るより、自力で働いて解決しろということ。
居仏が立ち仏を使う(いぼとけがたちぼとけをつかう)
座っている者が、立っている者に用事を頼むたとえ。「居仏」は、座像の仏のこと。
今際の念仏誰も唱える(いまわのねんぶつだれもとなえる)
不信心な人でも、死に際には念仏を唱えて仏にすがるということ。
鰯で精進落ち(いわしでしょうじんおち)
せっかくの努力がつまらないことで報われなくなることのたとえ。また、長い間の努力が十分に報われないことのたとえ。 「精進落ち」は菜食で身を慎む精進期間が終わって、魚肉類を食べること。 精進期間中に鰯のようなつまらない魚をうっかり食べてそれまでの努力を無駄にするとの意から。また、精進期間が終わったのに鰯のようなつまらない魚で祝いをするとの意から。
鰯の頭も信心から(いわしのあたまもしんじんから)
どんなつまらないものでも、信じる心があれば尊く思われるということ。節分の夜、鰯の頭をひいらぎの枝に刺して門口に置くと鬼気を追い払うといわれてきたことから。
牛に引かれて善光寺参り(うしにひかれてぜんこうじまいり)
人に連れられてある場所へ出かけて行くこと。また、自分の意思ではなく他人の誘いによって、よい方向に導かれることのたとえ。 善光寺の近くに住んでいた不信心な老婆が布をさらしていると、その布を牛が角にひっかけて逃げてしまった。老婆は牛を追いかけて善光寺に着き、その縁によって信仰するようになったという故事から。
嘘も方便(うそもほうべん)
嘘も時と場合によっては、よい結果を得る手段として必要であるということ。仏教で衆生を真の教えに導くために、仏も嘘を用いたということから。
嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる(うそをつくとえんまさまにしたをぬかれる)
嘘をつくと、死んでから地獄の閻魔大王に悪い舌を抜かれる。だから嘘をついてはいけないと、子どもを戒めたことば。
運は天にあり(うんはてんにあり)
行く末がどう転ぶかは、こちらの裁量の及ばないところで決まっている。 また、先が読めない以上は腹をくくるほかない、と踏ん切りをつける場面でも使う。
臆病の神降ろし(おくびょうのかみおろし)
気の小さい者ほど、大げさな手立てにすがって身の安全をはかろうとするということ。 「神降ろし」は巫女が神霊を招き下ろす儀式のことで、そこまでの仕掛けを持ち出す腰の引けようをあざけった言い方。
お百度を踏む(おひゃくどをふむ)
願い事が叶うように神前や仏前まで百回往復して祈願すること。また、頼みごとを聞き入れてもらうために、相手のところを何度も繰り返し訪ねること。
女の髪の毛には大象も繋がる(おんなのかみのけにはたいぞうもつながる)
女の魅力には、男の心を引きつける強い力があるというたとえ。女の髪の毛で足を繋がれて動けなくなった大きな象を、煩悩にとらわれて悟れない人にたとえた仏教の経典から。
女は三界に家なし(おんなはさんがいにいえなし)
女はこの広い世界のどこにも安住できる所がないということ。 「三界」は仏教語で欲界・色界・無色界のことから全世界の意味。 女は子どものころは父に従い、結婚してからは夫に従い、老いてからは子に従うもので、世界のどこにも安住できる所がないとの意から。 「三界に家なし」ともいう。
カエサルの物はカエサルに(かえさるのものはかえさるに)
銀貨に刻まれた皇帝の像を示して、税を納めるべきかと問うた者たちに返したという一句。 信仰の場で果たすことと、この世の政の下で果たすことは筋道が別で、片方を立てればもう片方が倒れるという間柄ではない。 取るべき者の手へ返せ、という向きにも用いる。
隠れての信は顕われての徳(かくれてのしんはあらわれてのとく)
心中に秘めている誠実さは、いつか自然に外にあらわれて自分自身の利得になるということ。 心中に神仏への信仰心があれば、必ずご利益があるとの意から。 「隠れたる信あらば顕われたる利生」「隠れたる信あらば顕われたる験」ともいう。
叶わぬ時の神頼み(かなわぬときのかみだのみ)
思うようにことが運ばなくなって初めて、日ごろ拝みもしない神仏の前に手を合わせるということ。 自分の力では埒が明かないと知るなり急に信心深くなる、その虫のよさをついた言葉。
金の光は阿弥陀ほど(かねのひかりはあみだほど)
金の力が絶大であることのたとえ。 金銭は阿弥陀如来の威光にも匹敵するという意味から。
神掛けて(かみかけて)
神様に誓って。 自分の言動などに偽りがないことを強調するときに言う言葉。
神は正直の頭に宿る(かみはしょうじきのこうべにやどる)
正直で誠実な人には必ず神の助けがあるということ。
神は非礼を受けず(かみはひれいをうけず)
礼にはずれたことを願っても、神は聞き届けてはくれないということ。
神は見通し(かみはみとおし)
神様は人々のどんなに小さい行為でも見抜いているので誤魔化すことはできないということ。 「神様はお見通し」「天道様はお見通し」「天は見通し」「神仏は見通し」「仏は見通し」などともいう。
髪を下ろす(かみをおろす)
頭髪を剃り落として僧や尼になること。 「頭を下ろす」ともいう。
願を懸ける(がんをかける)
神仏に自分の願い事が叶うように祈ること。 「懸ける」は「掛ける」とも書く。 また「願を起こす」「願を立てる」ともいう。
木仏、金仏、石仏(きぶつ、かなぶつ、いしぼとけ)
融通の利かないひと。特に男女の情愛に疎いひとのこと。
禁断の木の実(きんだんのこのみ)
禁じられているが、魅惑的な快楽のたとえ。「禁断」は、かたく禁じること。エデンの園の神から食べることを禁じられていた知恵の木の実を、蛇にそそのかされて食べてしまったアダムとイブが楽園から追放されたという話から。
食い物と念仏は一口ずつ(くいものとねんぶつはひとくちずつ)
食べ物は一口ずつでもみんなで分け合って食べたほうがよいということ。また、念仏は一人が一口ずつ唱えてもご利益があるということ。 「食い物」は「食べ物」ともいう。
供養より施行(くようよりせぎょう)
死んだ人の供養より、生きている人に施しをするほうが大切だということ。
苦しい時の神頼み(くるしいときのかみだのみ)
信仰心のない者が、苦しい時だけ神に祈って助けてもらおうとすること。
現世安穏、後生善処(げんぜあんのん、ごしょうぜんしょ)
法華経を信じる人は、この世では安穏に生活でき、あの世ではよい世界に生まれるということ。
事ある時は仏の足を戴く(ことあるときはほとけのあしをいただく)
普段は不信心な人でも、困ったときには仏の足元にひれ伏して救いを求めるというたとえ。
金輪際(こんりんざい)
物事の底の底、極限のところ。転じて、絶対に、断じてということ。もとは仏教用語で、大地の最下底の所。
極楽の入り口で念仏を売る(ごくらくのいりぐちでねんぶつをうる)
知り尽くしている人にものを教えるたとえ。
後光より台座が高くつく(ごこうよりだいざがたかくつく)
ものごとは、目立たない基礎の部分に案外お金がかかるということ。 仏像は人目につく光背より、目立たない台座のほうが費用がかかるとの意から。
後生が大事(ごしょうがだいじ)
来世の安楽を願って信心することが大切だということ。
御幣を担ぐ(ごへいをかつぐ)
縁起をひどく気にし、迷信をむやみに信じる。「御幣」は神事に使う幣束の敬称で、それを担いで災いを遠ざける意から。
寒さの果ても涅槃まで(さむさのはてもねはんまで)
冬の寒さも涅槃会が来ると終わるということ。「涅槃」は、陰暦二月十五日の釈迦入滅の日に行う法会、涅槃会のこと。
三界の火宅(さんがいのかたく)
苦悩に満ちた世界を、火に包まれて燃えさかる家にたとえた言葉。「三界」は、この世のこと。
色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
この世の形あるすべてのものは、空しい仮の存在であり永遠に存在するものはないということ。同時に、すべてのものの本質は実体のない空なものであるが、それがこの世を形作っているということ。「色」は形あるすべてのもの、「即」はそのままの意。
死生、命あり(しせい、めいあり)
人の生死は天命によるもので、人の力ではどうすることもできないということ。「死生」は、死ぬことと生きること。
主従は三世(しゅじゅうはさんぜ)
主従の間柄は、前世・現世・来世の三世にもわたるほど深いということ。
正法に奇特なし(しょうぼうにきどくなし)
正しい宗教には不思議な利益(りやく)などは存在せずに、不思議な恩恵があるとすればそれは邪教であるということ。 「正法」は「しょうほう」とも読む。 「正法に不思議なし」ともいう。
白羽の矢が立つ(しらはのやがたつ)
数ある中から、これと名指しで選び出される。 もとは神が生贄の娘の家に印を残したという伝えに拠り、望まぬ役目を負わされる側にもいう。
信心過ぎて極楽を通り越す(しんじんすぎてごくらくをとおりこす)
信仰の心もあまりに強くなりすぎると、まともな道を踏み外し、かえって我が身を損なうということ。何事もほどのよさが大切だという戒め。 極楽を願うあまり、その極楽さえ行き過ぎてしまうという言い方。
信心は徳の余り(しんじんはとくのあまり)
神仏を拝む気持ちも、暮らしに余力があってこそ起こるものだということ。日々食うに困っていては、信心どころではない。
信心も欲から(しんじんもよくから)
熱心に手を合わせる裏にも、よい報いにあずかりたいという願いがある。まったくの無心から出た信心はまれだ、という見方。
信は荘厳より起こる(しんはしょうごんよりおこる)
信仰にも見た目や形式が大切であるということ。 または、形式から内容は導き出されるということ。 寺院や神社の美しく飾られた見た目に感動して信仰心は生まれるということから。
地獄極楽は心にあり(じごくごくらくはこころにあり)
地獄や極楽は、人の心の中に存在する。つまり、心の持ちようで、地獄にも極楽にもなるということ。
十三日の金曜日(じゅうさんにちのきんようび)
欧米では凶事を呼ぶ日として嫌われ、この日を避ける習わしがある。 最後の晩餐の席に着いたのが十三人であったこと、キリストが十字架にかけられたのが金曜であったこととを結び付けた説がよく知られるが、言い伝えは一つに定まっていない。
生は寄なり死は帰なり(せいはきなりしはきなり)
人は仮にこの世に身を寄せて生きているのであり、死ねば本来いた所に帰るということ。
世帯仏法腹念仏(せたいぶっぽうはらねんぶつ)
ありがたい説法も念仏も、突き詰めれば日々の糧を得るための業だということ。 信心より先に暮らしがあるという、皮肉を込めた見方。
雪駄の裏に灸(せったのうらにきゅう)
長居をする客を早く帰らせるためのおまじない。 「草履に灸」ともいう。
狭き門(せまきもん)
入学や就職などで、競争相手が多く、合格するのがむずかしいことのたとえ。また、キリスト教で、天国に至る道が困難であることをたとえた語。
狭き門より入れ(せまきもんよりいれ)
楽な道を選ぶより、困難な道を選ぶほうが人間を高めるという教え。「狭き門」は、キリスト教の教えで、天国に至る道が困難であることをたとえた語。神の救いを得るためには、努力が必要であり、楽な道を選んではいけないということから。
善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや(ぜんにんなおもておうじょうをとぐ、いわんやあくにんをや)
仏の救いを頼みとしない善人でさえ極楽往生を遂げる。まして、仏の救いにすがるしかない悪人が往生できないわけがないということ。
袖振り合うも他生の縁(そでふりあうもたしょうのえん)
すれ違いざまに衣がかすっただけの相手にも、それまでの長い経緯が働いている。 行きずりの縁を軽く見るな、と説くときに持ち出す。
叩けよ、さらば開かれん(たたけよ、さらばひらかれん)
積極的に努力すれば、必ず成功への道は開けてくるということ。 ただ待っているだけでは神の国の門は開かれないが、ひたすら神に祈り、救いを求めれば門は開かれるだろうという意味。新約聖書に由来する言葉。
立ち仏が居仏を使う(たちぼとけがいぼとけをつかう)
立っている者が、座っている者に用事を頼むたとえ。自分で出来ることを無精して人にさせるたとえ。「居仏」は、座像の仏のこと。
掌を合わす(たなごころをあわす)
手を合わせて拝むこと。 「掌」は、てのひらのこと。
他人の念仏で極楽参り(たにんのねんぶつでごくらくまいり)
他人の力を当てにして、自分の利益を図ったり、義理を果たすことのたとえ。他人の唱えた念仏で自分が極楽へ行こうとする意から。
だんだん良くなる法華の太鼓(だんだんよくなるほっけのたいこ)
先へ進むほど調子が上がっていく。 打ち続けるうちに冴えてくる題目の太鼓に、「よくなる」を「よく鳴る」と掛けた地口。
地の塩(ちのしお)
世の模範や手本のたとえ。神を信じる者は、腐敗を防ぐ力のすぐれた塩のように、社会の純化の模範であれとの意から。
手水を使う(ちょうずをつかう)
社殿や堂に上がる前、水で身の穢れを落とす所作をする。 また、厠へ立つことを遠回しに言う形でも使う。
長夜の眠り(ちょうやのねむり)
明けない夜に横たわっているように、生涯を朧げなまま過ごすこと。 仏の教えでは、迷いから抜け出せず生き死にを繰り返す身の上をこう呼ぶ。 「長夜の夢」ともいう。
頂礼昂じて尼になる(ちょうらいこうじてあまになる)
拝む心が高じるうちに、とうとう髪を下ろすまでになる。 のめり込みが度を越すと、引き返せない身の振り方に至る。
躓く石も縁の端(つまずくいしもえんのはし)
自分にかかわるすべてのものが、なんらかの因縁で結ばれているということ。 ふとつまずいた石も、多くの石の中で何かの縁があってつまずいたのであるとの意から。
手を合わせる(てをあわせる)
心の底から感謝したり、頼んだりすること。両の掌を合わせて神や仏を拝むということから。 または、勝負をすること。手合わせする。
西の海へさらり(にしのうみへさらり)
厄払いを行う際、末尾につける文句のこと。
女房、鉄砲、仏法(にょうぼう、てっぽう、ぶっぽう)
女性は雰囲気を和らげ、鉄砲の力で治安を保ち、仏法で人の心を正しく導く。この三つの力で世の中がうまく治まっているということ。
寝た間は仏(ねたまはほとけ)
どんな悪人でも眠っている間は仏のように無心だということ。また、眠っている間は苦労や心配も忘れ、仏のような心になれるということ。
光を和らげ塵に同ず(ひかりをやわらげちりにどうず)
持っているものをことさら見せず、世の人と同じ高さに身を置いて付き合う。 救う側が形を落としてこの世に現れるという仏の説き方から出た言葉で、今は人の身の処し方にもいう。 「塵に同ず」とも。
夫婦は二世(ふうふはにせ)
夫婦の関係は現世だけでなく、来世まで続く深い関係であるということ。
豚に念仏、猫に経(ぶたにねんぶつ、ねこにきょう)
ありがたい教えも理解できないものにとっては、なんの効果もないことのたとえ。
仏の沙汰も銭(ほとけのさたもぜに)
この世は金次第でどうにでもなるということのたとえ。 仏がその人を救うかどうかさえも寄付した金銭の多さで変わるということから。
仏の光より金の光(ほとけのひかりよりかねのひかり)
人の心は、仏のありがたさよりも金の力にひかれやすいというたとえ。
仏ほっとけ神構うな(ほとけほっとけかみかまうな)
神仏には近づきすぎないでおけ、という心得。「仏」を「ほっとけ」、「神」を「かまうな」と重ねて口調をそろえた文句。
坊主の不信心(ぼうずのふしんじん)
他人には立派なことを言いながら、その人自身は実行が伴わないことのたとえ。 人に信仰を説く坊主が信仰心がないとの意から。
菩提を弔う(ぼだいをとむらう)
死者の冥福を祈ること。また、そのための仏事などを行うこと。
無明の酒に酔う(むみょうのさけによう)
煩悩にとらわれ真理を理解できず、思い惑うことのたとえ。「無明の酒」は人を惑わす煩悩を、正常な心を失わせる酒にたとえた言葉。
文殊も知恵のこぼれ(もんじゅもちえのこぼれ)
頭の働く人であっても、どこか一つは取りこぼしが出るということ。 「こぼれ」は、こぼれ落ちること。知恵の徳を一身に負う文殊菩薩ですら、こぼし落とすものがあるという言い方。
夢枕に立つ(ゆめまくらにたつ)
夢の中に神仏や死んだ人の霊が現れて、物事を告げ知らせること。「夢枕」は夢を見ている人の枕元。
世渡りの殺生は釈迦も許す(よわたりのせっしょうはしゃかもゆるす)
生活のためならば、多少の不道徳や無慈悲な行いはやむを得ないということ。
霊験あらたか(れいげんあらたか)
拝んだ相手からの返りが目に見えて分かるさま。願いを掛けた側が、確かに届いたと受け取れるほど応じてくる。
我が仏尊し(わがほとけとうとし)
手を合わせてきた相手こそが一番だと、疑いもせずに思い込む。 自分の側の物差ししか目に入らず、よそのものを端から見ようとしない狭さをいう。
