「の」を含む故事・ことわざ・慣用句
「の」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 2187 件
負け博打のしこり打ち(まけばくちのしこりうち)
博打に負けた者が、負ければ負けるほど博打を打つこと。
孫飼わんより犬の子飼え(まごかわんよりいぬのこかえ)
孫を可愛がっても孝養は期待できないから、犬でも飼ったほうがましだということ。
まさかの時の友こそ真の友(まさかのときのともこそしんのとも)
苦しい状況の時、助けてくれる友こそ本当の友だちだということ。
松の木柱も三年(まつのきばしらもさんねん)
その場だけを切り抜けるなら、どんなものでも役に立つというたとえ。腐りやすい松の柱でも三年くらいは持つということから。
祭りの渡った後のよう(まつりのわたったあとのよう)
にぎやかだったあと、急に静まりかえることのたとえ。にぎやかな祭りの行列が通り過ぎたあと静かになる意から。
祭りより前の日(まつりよりまえのひ)
祭りの当日より、待ちかねている前日のほうが楽しいということ。
待てば海路の日和あり(まてばかいろのひよりあり)
焦らずに待っていれば良い機会がきっとめぐってくるというたとえ。 荒れた海も、待っていれば航海に適した日が必ず訪れるということ。 「待てば甘露の日和あり」から転じた語といわれる。 「甘露」は、古代中国の伝説で、天が降らせたとされる甘い露のこと。 日照りの時も耐えて待てば、やがて甘露のような恵みの雨が降る日が来るとの意から。
待てば甘露の日和あり(まてばかんろのひよりあり)
焦らずに待っていれば良い機会がきっとめぐってくるというたとえ。 「甘露」は、古代中国の伝説で、天が降らせたとされる甘い露のこと。 日照りの時も耐えて待てば、やがて甘露のような恵みの雨が降る日が来るとの意から。
学ぶに暇あらずと謂う者は暇ありと雖も亦学ぶ能わず(まなぶにいとまあらずというものはいとまありといえどもまたまなぶあたわず)
勉強したくても時間がないなどという人は、もともと学ぶ意欲がないのだから、たとえ暇があったとしても勉強はしないということ。
学ぶのに年を取り過ぎたということはない(まなぶのにとしをとりすぎたということはない)
学ぶことに年齢の制限はなく、いくつになっても新しい知識を得ることができるということ。学びには終わりがないため、一生を通じて学び続けることが大切であるという考え。 英語の 「Never too late to learn(学ぶのに遅すぎることはない) 」に由来する表現であり、ローマの哲学者・詩人セネカの言葉とされる。
豆鉄砲を食った鳩のよう(まめでっぽうをくったはとのよう)
突然のことに驚いて、きょとんとしている様子のたとえ。 「豆鉄砲」は、豆や丸めた紙などを弾に使うおもちゃの鉄砲。 豆鉄砲で撃たれてた鳩が、突然のことにびっくりして目を丸くしている様子から。 「鳩に豆鉄砲」「豆鉄砲を食った鳩のよう」ともいう。
眉唾物(まゆつばもの)
疑わしいもの。また、信用できないこと。 「眉唾」ともいう。
迷わぬ者に悟りなし(まよわぬものにさとりなし)
疑問や迷いを持たない人は悟ることもない。おおいに迷うからこそ悟りも開けるということ。
見掛けばかりの空大名(みかけばかりのからだいみょう)
見かけは豪勢だが、中身は貧弱なことのたとえ。
右に出る者がない(みぎにでるものがない)
一番すぐれていて、その人に優る者がいないということ。昔、中国で右を上席としたことから。
右の耳から左の耳(みぎのみみからひだりのみみ)
何を聞いても聞いたはしから忘れてしまうことのたとえ。右の耳から入って、すぐに左の耳へ抜けてしまう意から。
見知らずの口叩き(みしらずのくちたたき)
自分の身のほども知らずに、大きなことを言うこと。
水の泡(みずのあわ)
努力してきたものがすべて無駄に終わることのたとえ。
水の泡となる(みずのあわとなる)
水の泡がはかなく消えるように、努力のかいもなく、まったく無駄に終わることのたとえ。
水の滴るよう(みずのしたたるよう)
若々しくて美しいようすの形容。
水の月取る猿(みずのつきとるさる)
自分の能力をわきまえず、欲張ったまねをして失敗することのたとえ。 猿が水に映った月を取ろうとしたとき、枝が折れ水に落ちて溺れ死んだという故事から。 「猿猴が月」「水の月取る猿」「月の影取る猿」ともいう。
水の低きに就くが如し(みずのひくきにつくがごとし)
水が低い方へ流れていくように、物事のなりゆきは止めようとしても止められないということ。
水は方円の器に随う(みずはほうえんのうつわにしたがう)
人は交友関係や環境しだいで、良くも悪くもなるというたとえ。 「方円」は四角形と円形のこと。水は容器の形によって四角にも丸くもなるということから。
水を得た魚のよう(みずをえたさかなのよう)
その人の力を発揮できる場所を得て、生き生きと活躍するようすのたとえ。
味噌の味噌臭きは食われず(みそのみそくさきはくわれず)
いかにも専門家のようにふるまう人は、真にその道の達人とはいえないということ。 いかにも味噌だという味噌くさい味噌は食べられたものではなく、上等な味噌には味噌臭さがないとの意から。
三つ子の魂百まで(みつごのたましいひゃくまで)
幼い時の性格は、年をとっても変わらないということ。
見ての極楽、住んでの地獄(みてのごくらく、すんでのじごく)
外から見るのと、実際に体験するのでは大違いであることのたとえ。 はたから見ると極楽のように見えるが、実際に住んでみるとまるで地獄のようだとの意から。 「見ては極楽住んでは地獄」ともいう。
醜い家鴨の子(みにくいあひるのこ)
みんなから容姿が悪いとか、愚かだとか言われていても、大人になってきれいになったり、偉くなったりする子どものこと。アンデルセンの童話から。
身に過ぎた果報は災いの基(みにすぎたかほうはわざわいのもと)
分不相応の幸福は、かえって不幸を招くもとになるから、分相応な幸せがよいということ。「果報」は幸運の意。
見ぬ京の物語(みぬきょうのものがたり)
実際には知らないことをいかにも知っているかのように話すこと。また、その話。 実際には行ったことがない京について、いかにも見てきたかのように話すとの意から。 「知らぬ京物語」「似ぬ京物語」ともいう。
見ぬ物清し(みぬものきよし)
見なければ、汚い物事も気にせずにいられるということ。 「見ぬこと清し」ともいう。
身の置き所がない(みのおきどころがない)
申し訳ない気持ちや恥ずかしい気持ちなどから、その場に居続けることが難しい様子。
身の毛がよだつ(みのけがよだつ)
恐ろしい目にあって全身の毛が逆立つほど、ぞっとする様子。
実の生る木は花から知れる(みのなるきははなからしれる)
すぐれた人物は、子どもの頃から凡人とは違うというたとえ。 よく実のなる木は、花が咲くときからわかるとの意から。 「実を結ぶ木は花より知らるる」「生る木は花から違う」ともいう。
実るほど頭の下がる稲穂かな(みのるほどあたまのさがるいなほかな)
人は学問や徳が深まると、かえって謙虚になることのたとえ。 稲穂は実が入ると重くなり頭を下げることから。 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」「実る稲田は頭垂る」ともいう。
身は習わしもの(みはならわしもの)
人は環境や習慣次第でどのようにも変化するものだということ。
身ほど可愛いものはない(みほどかわいいものはない)
人は自分の身が何よりも大事であるということ。
耳に残る(みみにのこる)
言葉や音などが記憶に残り続けること。
見目は果報の基(みめはかほうのもとい)
顔かたちが美しいということは、幸運をもたらす元だということ。「見目」は容貌、「果報」は幸運の意。
見るに忍びない(みるにしのびない)
あまりにも気の毒で、見ているのがつらい様子。
見るは目の毒(みるはめのどく)
見れば欲しくなるので、見ないほうがよいということ。
無為の治(むいのち)
人徳のある人が上に立つと、特別なことは何もしなくても、世の中は自然に治まるということ。 「無為にして治まる」「無為の治」ともいう。
無何有の郷(むかうのさと)
自然のままで人為的なわずらわしさがない仙境。自然のままの楽土。理想郷。ユートピア。 「無何有」は何もないこと。
昔年寄りに弱い者なし(むかしとしよりによわいものなし)
年寄りに昔話を聞くと、若い頃に弱かった人は一人もいないことになるということ。年寄りの自慢話をからかうことば。
昔の剣、今の菜刀(むかしのつるぎ、いまのながたな)
昔は有能であった人も、年をとると役に立たなくなるというたとえ。また、いくら良いものでも今の役にたたないものより、つまらないものでも今の役にたつもののほうがいいということ。
昔は今の鏡(むかしはいまのかがみ)
昔のことは現代の手本になるので、歴史を学ぶことが将来に役立つということ。
無冠の帝王(むかんのていおう)
特別な地位などは持っていないが、実力を有している者のこと。 スポーツなどで、極めてすぐれた能力を持ちながら、大きなタイトルを獲得できずにいる人。 または、ジャーナリストや新聞記者などの自称。権力に屈することなく評論する人という意味から。
無告の民(むこくのたみ)
苦しみを訴える相手のいない人のこと。転じて、身寄りのない人のこと。
無辜の民(むこのたみ)
罪がない人のこと。「無辜」は罪がないという意。
虫でも向かってくるものである(むしでもむかってくるものである)
小さく弱いものでもそれ相応の意地があるから、場合によっては強敵に立ち向かうこともある。どんな相手でもあなどってはいけないということ。
虫のいい(むしのいい)
物事を何でも自分にとって都合のいいように考えるさま。 自己中心的で身勝手であるさま。 「虫のいい」ともいう。
虫の息(むしのいき)
呼吸が弱弱しくて今にも止まりそうなようす。
虫の居所が悪い(むしのいどころがわるい)
機嫌が悪くて怒りやすくなっていることのたとえ。
虫の知らせ(むしのしらせ)
なんとなく悪い予感がすること。
無常の風は時を選ばず(むじょうのかぜはときをえらばず)
風が咲いている花を散らすのに時を選ばないように、人の命もいつ果てるのか、まったく予測はつかないということ。
無明の酒に酔う(むみょうのさけによう)
煩悩にとらわれ真理を理解できず、思い惑うことのたとえ。「無明の酒」は人を惑わす煩悩を、正常な心を失わせる酒にたとえた言葉。
無用の長物(むようのちょうぶつ)
あっても何の役に立たず、かえって邪魔になるもののたとえ。「長物」は長すぎて用をなさないものの意から、無駄なもののこと。
無用の用(むようのよう)
役に立たないと思われているものが、実は重要な役割を果たしていたり、かえって役に立ったりすること。 「不用の用」ともいう。
紫の朱を奪う(むらさきのあけをうばう)
邪道なものが正しいものに取って代わること、地位を奪うことのたとえ。 古代中国で中間色の紫色の服が流行り、正色とされていた朱色の服よりも好まれるようになったことを孔子が憎み嘆いたという故事から。 「朱を奪う紫」ともいう
無累の人(むるいのひと)
あらゆる物欲を超越し、何事にもわずらわされることのない人。「無累」はわずらわすものがない意。
冥土の道には王なし(めいどのみちにはおうなし)
現世での身分の上下、貧富の差は、死ねばいっさい無くなるということ。また、死は誰にも等しく訪れるということ。「冥土」は「冥途」とも書き、死者の霊魂が行くという世界のこと。
名物に旨い物なし(めいぶつにうまいものなし)
名物と言われている物には、案外旨い物がない。名と実は必ずしも一致しないということ。
目高も魚のうち(めだかもととのうち)
とるに足りないようなものでも仲間には違いがないというたとえ。目高のように小さな魚でも、魚の仲間に違いはないということから。
目で物を言う(めでものをいう)
言葉にすることなく、目配せなどをして相手に気持ちを伝えること。
目と鼻の先(めとはなのさき)
距離が非常に近いこと。目と鼻の間。
目に物見せる(めにものみせる)
憎らしい相手をひどい目にあわせて、思い知らせること。
目のあるだけ不覚(めのあるだけふかく)
自分が犯した失敗には言い訳は通用せず、不注意や落ち度があったことを認めないわけにはいかないということ。 目があるにもかかわらず、見えなかったと言いのがれすることはできないとの意から。
目の上の瘤(めのうえのこぶ)
何かと目障りで自分の活動の邪魔になるひと。
目の敵(めのかたき)
何かにつけて目障りで、敵意を抱き憎く思う相手のこと。
目の敵にする(めのかたきにする)
許せない相手として、見るたびに強い不快感を抱くこと。 なにかにつけて敵視すること。
目の皮がたるむ(めのかわがたるむ)
今にも眠りそうになる様子。
目の正月(めのしょうがつ)
珍しいものや貴重なもの、非常に美しいものを見て楽しむこと。
目の玉が飛び出る(めのためがとびでる)
値段が驚くほど高い様子。 また、激しく叱られる様子。 「目玉が飛び出る」「目の玉が飛び出る」ともいう。
目の付け所(めのつけどころ)
特に注目すべき点のこと。
目の毒(めのどく)
それを目にすると害になるもの。 または、目にするとほしくなるもの。
目の前が暗くなる(めのまえがくらくなる)
がっかりして、将来に対する希望を失う様子。 「目の前が真っ暗になる」ともいう。
目の寄る所へは玉も寄る(めのよるところへはたまもよる)
同類が自然に寄り集まることのたとえ。 目が一方へ動けば、それにつれて瞳も動くとの意から。
目は口ほどに物を言う(めはくちほどにものをいう)
目の表情だけでも、口で話すのと同じくらい、相手に気持ちを伝えることができるということ。
目は心の鏡(めはこころのかがみ)
目を見れば、その人の心の正邪がわかるということ。 目はその人の心を映し出す鏡との意から。
雌鶏の晨する(めんどりのあしたする)
女性が権勢を振るうことのたとえ。 「牝鶏」はめんどり、「晨す」は夜明けを告げること。 雄が知らせるべき夜明けをめんどりが鳴いて知らせるとの意から。 昔は国や家庭を滅ぼす前兆とされていた。 「雌鶏の晨する」ともいう。
