「た」を含む故事・ことわざ・慣用句
「た」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 1555 件
星を戴いて出で、星を戴いて帰る(ほしをいただいていで、ほしをいただいてかえる)
朝早くから夜遅くまで仕事に励むことのたとえ。まだ星の見える早朝に家を出て、夜空に星がきらめく頃に帰るということから。
臍を固める(ほぞをかためる)
固く決心して覚悟を決めること。「臍」はへその意。人が決心する時、腹に力を入れ臍を固くするということから。
仏造って魂入れず(ほとけつくってたましいいれず)
ほとんど仕上がっているのに、肝心な部分が抜け落ちていること。 仏像を作っても、魂を入れ忘れるとの意から。
仏の沙汰も銭(ほとけのさたもぜに)
この世は金次第でどうにでもなるということのたとえ。 仏がその人を救うかどうかさえも寄付した金銭の多さで変わるということから。
骨折り損のくたびれ儲け(ほねおりぞんのくたびれもうけ)
苦労するだけで、少しも成果が上がらないこと。江戸いろはがるたの一つ。
惚れたが因果(ほれたがいんが)
惚れてしまった以上、苦労するのもやむを得ないということ。
惚れた腫れたは当座のうち(ほれたはれたはとうざのうち)
惚れたのなんのといって夢中になるのは初めのことだけで、すぐに生活に追われて所帯じみてしまうということ。
惚れた病に薬なし(ほれたやまいにくすりなし)
恋わずらいは、治す薬もなく、どうすることもできないということ。
惚れた欲目(ほれたよくめ)
惚れてしまうと、相手の欠点は目につかず、実際以上によく見えてしまうということ。
亡羊の嘆(ぼうようのたん)
学問の道があまりにも幅広いため、真理をとらえることの難しさを嘆くこと。また、どうしてよいかわからず、途方に暮れて嘆くことのたとえ。 逃げた羊を追いかけたが、道がいくつも分かれていたため途方に暮れたという故事から。
木鐸(ぼくたく)
世の中の人を教え導く人。古代中国で、法令などを人民に示す時に用いた、木の舌のついている大鈴の意から。
牡丹に唐獅子、竹に虎(ぼたんにからじし、たけにとら)
絵になる取り合わせのよいもののたとえ。
ボタンを掛け違える(ぼたんをかけちがえる)
食い違いや矛盾などがあったことに後になってから気づくこと。 衣服のボタンを掛けるときに一つ間違えるとその後が全てずれるということから。
盆と正月が一緒に来たよう(ぼんとしょうがつがいっしょにきたよう)
うれしいことが重なることのたとえ。また、非常に忙しいことのたとえ。
参らぬ仏に罰は当たらぬ(まいらぬほとけにばちはあたらぬ)
何事にも関わらなければ、災いを受けることもないということ。 参ってもいない仏の罰が当たるはずがないとの意から。
蒔かぬ種は生えぬ(まかぬたねははえぬ)
原因がないところに結果はないということ。努力もせずに良い結果を期待してもかなえられないというたとえ。種を蒔かなければ何も実るはずがないという意から。
曲がった釜には曲がった甑(まがったかまにはまがったこしき)
どんなものにも、それにふさわしい相手や形があるというたとえ。 また、夫婦は似た者同士がつり合いがとれてうまくいくということ。 ゆがんだ釜であっても、それに合うゆがんだ甑があるとの意から。 「甑」は、釜の上にのせて穀物を蒸す道具。
間が持たない(まがもたない)
何もすることがなく、空いた時間の扱いに困ること。また、会話などが途切れて気まずい時間ができること。 「間が持たない」ともいう。
曲がらねば世が渡られぬ(まがらねばよがわたられぬ)
道理や正義だけでは世の中はうまく渡っていけない。時には自分の意を曲げて相手に合わせることも必要だということ。
枕を高くして寝る(まくらをたかくしてねる)
気にかかることがなく安眠することのたとえ。心配ごとが何もないさまをいう。
瞬く間(またたくま)
一回の瞬きほどの短い時間。あっという間。
股に掛ける(またにかける)
各地を歩きまわること。 また、広い地域にわたって活躍すること。
待たぬ月日は経ちやすい(またぬつきひはたちやすい)
待ち望んでいる日はなかなかやってこないものだが、ぼんやりしていると知らぬ間に月日が過ぎ去ってしまうということ。
待たるるとも待つ身になるな(またるるともまつみになるな)
人を待つのは腹立たしいから、人を待たせることはあっても自分は待つ立場にはなるなということ。
待つ身より待たるる身(まつみよりまたるるみ)
人を待っている人もつらいものだが、待たせている者も相手のことが気になってつらいものだということ。
祭りの渡った後のよう(まつりのわたったあとのよう)
にぎやかだったあと、急に静まりかえることのたとえ。にぎやかな祭りの行列が通り過ぎたあと静かになる意から。
俎板の魚(まないたのうお)
他人の意志に完全に委ねられた、選択の余地がない状況に置かれていることのたとえ。 「俎上」は、まな板の上。 まな板の上にのせられた魚との意から。 「俎上の鯉」「俎板の魚」「俎板の鯉」などともいう。
学びて時に之を習う亦説ばしからずや(まなびてときにこれをならうまたよろこばしからずや)
勉強したことを、折にふれて復習するということは、いっそう理解を深めることになる。なんと楽しいことではないかということ。
学ぶ門に書来る(まなぶかどにふみきたる)
好きで打ち込んでいれば、おのずから道が開けるというたとえ。学問を好む人のところには、自然と書物が集まってくるということから。
学ぶに暇あらずと謂う者は暇ありと雖も亦学ぶ能わず(まなぶにいとまあらずというものはいとまありといえどもまたまなぶあたわず)
勉強したくても時間がないなどという人は、もともと学ぶ意欲がないのだから、たとえ暇があったとしても勉強はしないということ。
学ぶのに年を取り過ぎたということはない(まなぶのにとしをとりすぎたということはない)
学ぶことに年齢の制限はなく、いくつになっても新しい知識を得ることができるということ。学びには終わりがないため、一生を通じて学び続けることが大切であるという考え。 英語の 「Never too late to learn(学ぶのに遅すぎることはない) 」に由来する表現であり、ローマの哲学者・詩人セネカの言葉とされる。
豆を煮るに豆がらを燃く(まめをにるにまめがらをたく)
兄弟や仲間どうしが傷つけあったり争ったりすることのたとえ。 豆を煮るために豆がら燃やすとの意から。 魏の曹植は、兄の文帝から詩の才能を憎まれ、七歩歩く間に詩を作らなければ処罰すると言われて作ったとされる兄弟の不和を嘆く詩による。
丸い卵も切りようで四角(まるいたまごもきりようでしかく)
物事は話し方、やり方しだいで円満にいくこともあれば、角が立つこともあるというたとえ。丸い卵も切り方によっては四角になるということから。「ものも言いようで角が立つ」あとに続けてもいう。
真綿で首を絞める(まわたでくびをしめる)
遠まわしに、じわじわといじめたり痛めつけたりすることのたとえ。柔らかい真綿で首を絞めると、じわじわと絞まって時間がかかり余計に苦しむことから。
真綿に針を包む(まわたにはりをつつむ)
表面上は穏やかでやさしそうに見えるが、本当はひどく意地が悪いことのたとえ。 「綿に針を包む」ともいう。
味方見苦し(みかたみぐるし)
味方ばかり贔屓(ひいき)する行為は、不公平で見苦しいということ。
身から出た錆(みからでたさび)
自分が犯した悪行の結果として、自分自身が苦しむこと。
操を立てる(みさおをたてる)
志を堅く守って変えないこと。 また、女性が貞操を守り通すこと。
見知らずの口叩き(みしらずのくちたたき)
自分の身のほども知らずに、大きなことを言うこと。
水到りて渠成る(みずいたりてきょなる)
学問を究めれば自然に徳が備わってくるということ。また、時期が来ればものごとは自然に成就するということ。 「渠」は溝のことで、水が流れれば自然に溝ができるとの意から。
自ら卑うすれば尚し(みずからひくうすればたっとし)
へりくだって驕らない人は他人から尊敬され、自然と尊くなるということ。
水の滴るよう(みずのしたたるよう)
若々しくて美しいようすの形容。
水は方円の器に随う(みずはほうえんのうつわにしたがう)
人は交友関係や環境しだいで、良くも悪くもなるというたとえ。 「方円」は四角形と円形のこと。水は容器の形によって四角にも丸くもなるということから。
水を打ったよう(みずをうったよう)
多数の人が、いっせいに静まりかえるようす。
水を得た魚のよう(みずをえたさかなのよう)
その人の力を発揮できる場所を得て、生き生きと活躍するようすのたとえ。
水を離れた魚(みずをはなれたうお)
水から出た魚のように、頼りを失って自由がきかないことのたとえ。
店を畳む(みせをたたむ)
商売をやめて廃業すること。
味噌に入れた塩は他所へは行かぬ(みそにいれたしおはよそへはいかぬ)
他人に尽くすことは、一見無駄のように見えても、結局は自分のためになるということ。 味噌に入れた塩は、混じって見えなくなるが、味噌の味を調えるための役に立っているとの意から。
三度諌めて身退く(みたびいさめてみしりぞく)
繰り返し主君をいさめても聞き入れられない時は、潔く辞職するのが賢明だということ。
三度肘を折って良医となる(みたびひじをおってりょういとなる)
人は多くの苦労を重ね経験を積んで、初めて円熟した人間になれるということ。 医者は自分のひじを何度も折り、苦痛や治療を経験して初めて良医になることができるとの意から。
見たら見流し、聞いたら聞き流し(みたらみながし、きいたらききながし)
見たり聞いたりしたことは、みだりに口外しないほうがよいということ。
道に遺ちたるを拾わず(みちにおちたるをひろわず)
世の中が太平で人々が満ち足りた暮らしをしていることのたとえ。 「遺」は落ちている物のことで、人々が落ちている物を拾おうとしないほど太平であるとの意から。 「道に遺ちたるを拾わず」ともいう。
三つ子の魂百まで(みつごのたましいひゃくまで)
幼い時の性格は、年をとっても変わらないということ。
見つめる鍋は煮立たない(みつめるなべはにたたない)
待っている時間は非常に長く感じられることのたとえ。 鍋が煮立つのを見ながら待つと、なかなか煮え立たないとの意から。
身に過ぎた果報は災いの基(みにすぎたかほうはわざわいのもと)
分不相応の幸福は、かえって不幸を招くもとになるから、分相応な幸せがよいということ。「果報」は幸運の意。
見ぬ京の物語(みぬきょうのものがたり)
実際には知らないことをいかにも知っているかのように話すこと。また、その話。 実際には行ったことがない京について、いかにも見てきたかのように話すとの意から。 「知らぬ京物語」「似ぬ京物語」ともいう。
実るほど頭の下がる稲穂かな(みのるほどあたまのさがるいなほかな)
人は学問や徳が深まると、かえって謙虚になることのたとえ。 稲穂は実が入ると重くなり頭を下げることから。 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」「実る稲田は頭垂る」ともいう。
身二つになる(みふたつになる)
妊娠している人が出産すること。子どもを産むこと。
耳が痛い(みみがいたい)
他人の発言が、自らの弱点・欠点を指摘しているように聞こえて、聞いているのがつらく感じる様子。
耳に胼胝ができる(みみにたこができる)
何度も同じ事を聞かされてうんざりすることのたとえ。皮膚を繰り返し圧迫すると、たこができるということから。
耳を疑う(みみをうたがう)
想像や予測をしていなかったことを聞いて、信じることができない様子。
耳を傾ける(みみをかたむける)
その人の話を熱心にきくこと。
耳を貴び、目を賤しむ(みみをたっとび、めをいやしむ)
遠くのものを尊重して、近くのものを軽んじることのたとえ。また、昔を重んじて今を軽視することのたとえ。 人から聞いたことは信じて、自分の目で見たものは信じないとの意から。 「耳を信じて目を疑う」ともいう。
耳を立てる(みみをたてる)
注意を集中させて聞き取ろうとすること。
身も蓋もない(みもふたもない)
言動が露骨すぎて味気ないこと、または率直すぎて話の続けようがないことのたとえ。 「身」は蓋に対して器の意。 器も蓋もなく、剝き出しで隠しようがない状態との意から。
見るに堪えない(みるにたえない)
状態がひどかったり気の毒だったりして、見ていることができない様子。
身を固める(みをかためる)
結婚して家庭を持つこと。定まった職業に就くこと。 また、身支度をしっかりと整えること。
身を立てる(みをたてる)
身体をおこすこと。 また、不遇な環境にいた人が、努力して地位を得ること。
皆で渡れば怖くない(みんなでわたればこわくない)
間違っていることも、集団になれば平気でできるということ。 1980年頃、漫才コンビ「ツービート」が言った「赤信号皆で渡れば怖くない」から。
昔取った杵柄(むかしとったきねづか)
若い頃に習得した技量や腕前のこと。また、年月を経てもそれが衰えず十分に発揮できること。
昔の剣、今の菜刀(むかしのつるぎ、いまのながたな)
昔は有能であった人も、年をとると役に立たなくなるというたとえ。また、いくら良いものでも今の役にたたないものより、つまらないものでも今の役にたつもののほうがいいということ。
昔は肩で風を切り、今は歩くに息を切る(むかしはかたでかぜをきり、いまはあるくにいきをきる)
昔は威勢のよかった者が、今は衰えてしまったことのたとえ。若いころは肩で風を切ってさっそうと歩いていた者も、年をとって歩くだけで息切れするということから。
無告の民(むこくのたみ)
苦しみを訴える相手のいない人のこと。転じて、身寄りのない人のこと。
無辜の民(むこのたみ)
罪がない人のこと。「無辜」は罪がないという意。
無駄口を叩く(むだぐちをたたく)
無意味で不必要なお喋りをすること。
胸が痛む(むねがいたむ)
心配や悲しみなどから、つらい気持ちになること。
胸が高鳴る(むねがたかなる)
希望や期待などから、感情が高ぶる様子。
胸三寸に畳む(むねさんずんにたたむ)
すべてを心に納めて、顔にも言葉にも出さないこと。 「胸三寸」は胸の中のこと。 「胸三寸」は単に「胸」、「納める」は「畳む」ともいう。 また「腹に納める」ともいう。
胸を痛める(むねをいためる)
一人であれこれと思い悩んだり心配したりすること。
命旦夕に迫る(めいたんせきにせまる)
死期が間近に迫っている様子。 「旦夕」は朝晩のこと。 命の終わりがこの朝か晩かというほどに迫っているとの意から。
