「は」を含む故事・ことわざ・慣用句
「は」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 1813 件
貧は諸道の妨げ(ひんはしょどうのさまたげ)
金がなければ何もできず、貧乏は何をするにも妨げになるということ。
貧ほど辛いものはなし(ひんほどつらいものはなし)
悲しいことやつらいことがたくさんある世の中で、貧乏ほどつらいことはないということ。
美女は悪女の敵(びじょはあくじょのかたき)
優れた者が劣った者から逆恨みされることのたとえ。「悪女」は、不美人の意。世の中に美人がいるから、醜い女性の肩身が狭くて、不幸な目に遭うと思い込んだ不美人が、美人を恨むということから。
美人は言わねど隠れなし(びじんはいわねどかくれなし)
美人の存在は、自分から吹聴しなくても自然と世間に知れ渡るということ。
秒読みに入る(びょうよみにはいる)
物事が起こる時間が間近に迫っていること。 「秒読み」は開始や終了までの時間を秒単位で読み上げること。
貧乏難儀は時の回り(びんぼうなんぎはときのまわり)
貧乏したり苦労したりするのは、時のめぐりあわせにすぎないから悲観することはないということ。
貧乏は達者の基(びんぼうはたっしゃのもと)
貧乏な人は、身体を動かして一生懸命働くので丈夫で健康だということ。
貧乏花好き(びんぼうはなずき)
見分不相応なことのたとえ。 貧乏人が花作りを好むとの意から。
富貴には他人集まり、貧賤には親戚も離る(ふうきにはたにんあつまり、ひんせんにはしんせきもはなれる)
地位や財産のある者には赤の他人も寄ってくるが、貧乏な者には親戚さえも寄り付かないということ。
富貴は浮雲の如し(ふうきはふうんのごとし)
富や地位は、まるで空に浮かぶ雲のようにはかないものだということ。
夫婦喧嘩は犬も食わない(ふうふげんかはいぬもくわない)
夫婦喧嘩は長続きせずにすぐに仲直りするものなので、他人が仲裁に入るものではないということ。 何でも食べる犬ですら食べない(気に止めない)との意から。
夫婦喧嘩は寝て直る(ふうふげんかはねてなおる)
夫婦喧嘩は、一緒に寝ればすぐ仲直りするものであるということ。
夫婦喧嘩は貧乏の種蒔き(ふうふげんかはびんぼうのたねまき)
いつも夫婦喧嘩をしている家庭は、だんだん貧乏になっていうという戒めのことば。
夫婦は合わせ物離れ物(ふうふはあわせものはなれもの)
夫婦はもともと他人どうしがいっしょになったものだから、別れることがあっても仕方がないということ。
夫婦はいとこほど似る(ふうふはいとこほどにる)
夫婦は一緒に暮らしていると、肉親のように似てくるということ。
夫婦は二世(ふうふはにせ)
夫婦の関係は現世だけでなく、来世まで続く深い関係であるということ。
風流は寒いもの(ふうりゅうはさむいもの)
雪見や梅見などは、風流を解さない者にとっては寒いだけでつまらないということ。
深い川は静かに流れる(ふかいかわはしずかにながれる)
思慮深い人は決して騒ぎ立てず、冷静に行動するというたとえ。
俯仰、天地に愧じず(ふぎょう、てんちにはじず)
自分にやましいところや恥じるところは何一つないということ。 「俯」はうつむくこと、「仰」はあおぐこと。 うつむいて地に恥じるところがなく、あおいで天に恥じるところがないとの意から。
伏線を張る(ふくせんをはる)
これから起こるであろうことを予測して事前に準備しておくこと。 または、物語などで後で述べる事柄に関係があることをそれとなく示しておくこと。
河豚は食いたし命は惜しし(ふぐはくいたしいのちはおしし)
おいしい河豚は食べたいが、毒にあたって命を落とすのが怖くて手が出せない。いい思いはしたいが、あとのたたりが怖くてためらうことのたとえ。
巫山の春(ふざんのはる)
男女が夢の中で情交を結ぶこと。また、男女の情愛が細やかなことのたとえ。 中国楚の懐王が、昼寝の夢の中で巫山という山の神女と契ったという故事から。 「巫山の雲雨」「巫山の雲」「巫山の雨」「巫山の春」「[[朝雲暮雨*https://yoji.jitenon.jp/yojig/3167.html]]」ともいう。
布施ない経は読まぬ(ふせないきょうはよまぬ)
報酬が少ない時には、仕事に熱が入らずにいい加減になるということ。 「布施」は、僧侶に読経などの謝礼として渡す金品のこと。 布施が少ない時、僧侶は袈裟をつけずに経を読むとの意から。 「布施ない経は読まぬ」「布施だけの経を読む」「布施見て経を読む」ともいう。
不足奉公は双方の損(ふそくぼうこうはそうほうのそん)
仕事に不満を持ちながら働くのは奉公人にとって損であるし、主人側にとっても奉公人の仕事がはかどらないのは損だということ。 「不足奉公は両方の損」ともいう。
二つよいことはない(ふたつよいことはない)
一方に都合のよいことは、もう一方には都合が悪く、どちらにもよいことはないということ。
鮒の仲間には鮒が王(ふなのなかまにはふながおう)
つまらない者の中では、やはりつまらない者が首領となることのたとえ。また、つまらない者たちの中にもそれにふさわしい首領がいるというたとえ。
舟は船頭に任せよ(ふねはせんどうにまかせよ)
何事もその道の専門家に任せたほうがうまくいくというたとえ。 船に乗った時は、口出しせずに船頭に任せるのが一番よいとの意から。
船は帆でもつ、帆は船でもつ(ふねはほでもつ、ほはふねでもつ)
世の中は互いに助け合って成り立っているということ。 帆掛け船は帆がなければ進まず、帆は船があってこそのものとの意から。
舟は帆任せ、帆は風任せ(ふねはほまかせ、ほはかぜまかせ)
すべてを成り行きにまかせるしかない状態、また成り行きに任せたほうがうまくいくというたとえ。 帆掛け船は帆任せ、帆は風任せで進むとの意から。
不発に終わる(ふはつにおわる)
弾丸や爆弾などが発射されなかったり、爆発しなかったりすること。 または、予定していたものが行われないこと。
文は遣りたし書く手は持たず(ふみはやりたしかくてはもたず)
恋文を書いて送りたいが文字が書けない、また代筆を頼むのも恥ずかしいと思い悩む心情をいう言葉。 「文は遣りたし書く手は持たぬ」ともいう。
冬来りなば春遠からじ(ふゆきたりなばはるとおからじ)
つらく厳しい時期を耐え抜けば、その先には幸せが待っているというたとえ。 寒い冬が来たということは、遠くないうちに暖かい春もやってくるということから。 イギリスの詩人シェリーの「西風に寄せる歌」の一節から。
降りかかる火の粉は払わねばならぬ(ふりかかるひのこははらわねばならぬ)
自分の身に危険が迫れば、積極的にその危険を退けなければならないというたとえ。自分の体に降りかかってくる火の粉は、払わなければ火傷してしまうということから。
古傷は痛み易い(ふるきずはいたみやすい)
古傷が季節の変わり目などによく痛むように、過去の悪事や過失も何かにつけて思い出され、心が痛むということ。
風呂と客は立ったが良い(ふろときゃくはたったがよい)
客は長居をせずに、早く帰るほうがよいということ。客が「立つ」と風呂が「たつ」を掛けていった言葉。
武士に二言はない(ぶしににごんはない)
武士は信義を重んじるので、一度口にしたことは必ず守るということ。男が一度約束したことは必ず守るということのたとえ。
武士は相身互い(ぶしはあいみたがい)
武士同士は同じ立場にあるのだから、互いに理解し合って助け合うべきだということ。転じて、同じ立場にある者は、思いやりをもって互いに助け合うべきだということ。
武士は食わねど高楊枝(ぶしはくわねどたかようじ)
武士は貧しくて食事ができなくても、食べたふりをして楊枝を使い、他人に空腹を見せないようにするということ。転じて、貧しくても誇りを持って生きるべきだということ。
文は人なり(ぶんはひとなり)
文章には、筆者の人柄がそのまま表れ、読めば筆者の人となりが推察出来るということ。
平家を滅ぼすは平家(へいけをほろぼすはへいけ)
自分をだめにするのは、自分自身だというたとえ。平家が滅びたのは、驕り高ぶった平家自身の自業自得だったとの意から。
平地に波瀾を起こす(へいちにはらんをおこす)
世の中が平和に治まっているときに、わざわざもめごとを起こすたとえ。
兵は詭道(へいはきどう)
戦争に勝つためには、正当な方法だけでなく、人を欺く方法も用いなければならないということ。「詭道」は正しくない方法のこと。
兵は神速を貴ぶ(へいはしんそくをたっとぶ)
戦いで軍隊を動かす時は、迅速なことがもっとも大事なことであるということ。
下手の思案は休むに同じ(へたのしあんはやすむにおなじ)
よい考えも出ないのにあれこれ考えるのは、時間の無駄だということ。 もとは将棋や碁で、下手な人の長考をあざけって言った言葉。 「下手の思案は休むに同じ」ともいう。
屁と火事は元から騒ぐ(へとかじはもとからさわぐ)
張本人が一番最初に騒ぎ出すことが多いということのたとえ。 おならをした本人が真っ先に臭いと騒ぎ出し、火元の家の人が最初に火事だと騒ぎ出すとの意から。
減らぬものなら金百両、死なぬものなら子は一人(へらぬものならかねひゃくりょう、しなぬものならこはひとり)
必要な物が必要な分だけあれば十分だということ。 もしも使っても減らないのであれば金は百両、死なないのであれば子どもは一人いればよいとの意から。 「死なぬものなら子は一人、減らぬものなら金百両」ともいう。
箆増しは果報持ち(へらましはかほうもち)
年上の女性を妻にすると幸せになるということ。「箆増し」は年上の女房、「果報持ち」は幸運・幸せの意。
弁当は宵から(べんとうはよいから)
何事も準備は早めのほうがよいということ。 何が起こるかわからないから、翌日に必要な弁当も前日の夕方から準備しておくべきであるとの意から。
ペンは剣よりも強し(ぺんはけんよりもつよし)
文章などによる言論の力は武力よりも強大な力を持っているということ。イギリスの政治家・小説家リットンの戯曲『リシュリュー』の中の言葉から。
ぺんぺん草が生える(ぺんぺんぐさがはえる)
建物や土地などが手入れされずに荒れ果てている様子。 「ぺんぺん草」はアブラナ科の植物のナズナの別称。 雑草であるナズナが生えたままになっている様子からいう言葉。
朋友は六親に叶う(ほうゆうはりくしんにかなう)
親友は肉親に匹敵するほど大切だということ。「六親」は父・母・兄・弟・妻・子または父・子・兄・弟・夫・妻の称。
吠える犬はめったに噛みつかない(ほえるいぬはめったにかみつかない)
虚勢を張って強そうなことを言う者にかぎって実力がないというたとえ。
頬は面(ほおはつら)
呼び方は違っても、実質的には同じものであるということ。 「頬は面(つら)」ともいう。
細くても針は呑めぬ(ほそくてもはりはのめぬ)
どんなに細くても針を呑み込むことは出来ないように、たとえ小さくても決して見くびってはいけないということ。 「針は呑まれず」ともいう。
仏も昔は凡夫なり(ほとけもむかしはぼんぷなり)
どんな人間でも努力すれば、仏のように立派になれるということ。 釈迦も元は凡夫だったが、修行の末に悟りを開くことができたとの意から。 「仏も本は凡夫なり」ともいう。
褒める人には油断すな(ほめるひとにはゆだんすな)
言葉巧みに近づいてくる者は、下心があるから油断してはいけないということ。
法螺と喇叭は大きく吹け(ほらとらっぱはおおきくふけ)
嘘をつくなら人が信じないような大ぼらを吹け。そういう嘘なら人も傷つけず、嘘だとわかっても腹も立たないということ。 「法螺」は、山伏が吹く法螺貝のことで、ここではでたらめの意。吹き鳴らす法螺貝と喇叭を調子よく並べた言葉。
惚れた腫れたは当座のうち(ほれたはれたはとうざのうち)
惚れたのなんのといって夢中になるのは初めのことだけで、すぐに生活に追われて所帯じみてしまうということ。
歩を運ぶ(ほをはこぶ)
その場所に歩いて行くこと。
本音を吐く(ほんねをはく)
隠していた本当の気持ちを言葉に出すこと。
坊主の鉢巻き(ぼうずのはちまき)
坊主の鉢巻きはすべり落ちて、耳で受け止めることから、話を聞いて(耳で受け止めて)知っているということのしゃれ。 または、締まりがないこと、できないことをいうしゃれ。
坊主の花簪(ぼうずのはなかんざし)
持っていても何の役に立たない物のたとえ。「花簪」は造花などで飾ったかんざしのことで、坊主には役に立たないことから。
棒ほど願って針ほど叶う(ぼうほどねがってはりほどかなう)
大きな望みがあっても、叶うのはごくわずかだということ。
襤褸を着ても心は錦(ぼろをきてもこころはにしき)
たとえぼろぼろの衣服を着ていても心の中は錦を着ているように美しい。外見よりも内面が大事だということ。
煩悩の犬は追えども去らず(ぼんのうのいぬはおえどもさらず)
いくら追い払っても離れない犬のように、煩悩というものは、人の心から離れないということ。
ぽつぽつ三年、波八年(ぽつぽつさんねん、なみはちねん)
何事も一人前になるには、それなりの年月が必要だということ。 日本画の修行では、ぽつぽつと点で苔を描けるようになるのに三年、波を描けるようになるのに八年かかるとの意から。
参らぬ仏に罰は当たらぬ(まいらぬほとけにばちはあたらぬ)
何事にも関わらなければ、災いを受けることもないということ。 参ってもいない仏の罰が当たるはずがないとの意から。
前急ぎは後急ぎ(まえいそぎはあといそぎ)
先へと急ぎすぎると失敗が多いということ。
蒔かぬ種は生えぬ(まかぬたねははえぬ)
原因がないところに結果はないということ。努力もせずに良い結果を期待してもかなえられないというたとえ。種を蒔かなければ何も実るはずがないという意から。
曲がった釜には曲がった甑(まがったかまにはまがったこしき)
どんなものにも、それにふさわしい相手や形があるというたとえ。 また、夫婦は似た者同士がつり合いがとれてうまくいくということ。 ゆがんだ釜であっても、それに合うゆがんだ甑があるとの意から。 「甑」は、釜の上にのせて穀物を蒸す道具。
曲がる枝には曲がれる影あり(まがるえだにはまがれるかげあり)
原因が悪ければ悪い結果が生じるというたとえ。曲がった枝には、その曲がった枝の影ができるという意味から。
孫は子より可愛い(まごはこよりかわいい)
孫は子ども以上にかわいいということ。祖父母が孫をかわいがることの甚だしさをいう。
枡で量って箕でこぼす(ますではかってみでこぼす)
苦労して蓄えたものを無駄に使い果たしてしまうことのたとえ。 「箕」は穀物をふるうための道具。 枡ではかるようにして貯めたものを、升の何倍もの大きさがある箕で一度にこぼしてしまうとの意から。
先ず隗より始めよ(まずかいよりはじめよ)
大きな事業を行う時には、まず手近なところから始めよということ。また事を始めるときには、まず言い出した者から実行すべきであるということ。 中国の戦国時代、燕の昭王から賢者の集め方を問われた郭隗が「まず凡人の私を優遇してみて下さい。そうすれば私よりすぐれた人物が自然と集まってくるでしょう」と答えたという故事から。
待たぬ月日は経ちやすい(またぬつきひはたちやすい)
待ち望んでいる日はなかなかやってこないものだが、ぼんやりしていると知らぬ間に月日が過ぎ去ってしまうということ。
まだ早いが遅くなる(まだはやいがおそくなる)
まだ早いとのんびり構えていると、結局は手遅れということになりかねない。何事も油断は禁物だということ。
待つうちが花(まつうちがはな)
物事はあれこれ想像して待っている間が楽しいものであるということ。 「待つ間が花」ともいう。
的が外れる(まとがはずれる)
意見や批判などが、ものごとの核心からそれていること。 的に矢が当たらないという意味から。
学ぶに暇あらずと謂う者は暇ありと雖も亦学ぶ能わず(まなぶにいとまあらずというものはいとまありといえどもまたまなぶあたわず)
勉強したくても時間がないなどという人は、もともと学ぶ意欲がないのだから、たとえ暇があったとしても勉強はしないということ。
学ぶのに年を取り過ぎたということはない(まなぶのにとしをとりすぎたということはない)
学ぶことに年齢の制限はなく、いくつになっても新しい知識を得ることができるということ。学びには終わりがないため、一生を通じて学び続けることが大切であるという考え。 英語の 「Never too late to learn(学ぶのに遅すぎることはない) 」に由来する表現であり、ローマの哲学者・詩人セネカの言葉とされる。
