年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからずについて

言葉 | 年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず |
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読み方 | ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず |
意味 | 花は年ごとに変わることなく咲くが、人の境遇は年ごとに変化していく。
自然が変わらないのに対して、人の世ははかなく移りやすいことのたとえ。 |
出典 | 劉廷芝「代悲白頭翁」 |
別表記 | 年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず(ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず) |
使用されている漢字
「年」を含むことわざ
商い三年(あきないさんねん)
商いは始めてから三年くらいたたないと、利益を得るようにはならない。三年は辛抱せよというおしえ。
秋の入り日と年寄りはだんだん落ち目が早くなる(あきのいりひととしよりはだんだんおちめがはやくなる)
年々衰える年寄りの健康状態を、急速に暮れていく秋の夕日にたとえたことば。
悪妻は百年の不作(あくさいはひゃくねんのふさく)
悪い妻は夫を一生不幸にするということ。 「悪妻は六十年の不作」ともいう。
悪妻は六十年の不作(あくさいはろくじゅうねんのふさく)
悪い妻は夫を一生不幸にするということ。 「悪妻は百年の不作」ともいう。
顎振り三年(あごふりさんねん)
技量を身に付けるまでには長い年月がかかるということ。尺八は、顎を振って微妙な音を出すこつを会得するまでに三年かかることから。
いい年をして(いいとしをして)
分別ある年齢でありながら。 大人としてのふさわしくない行為を非難めかして言う言葉。
「歳」を含むことわざ
歳寒の松柏(さいかんのしょうはく)
逆境で苦しい状況でも、信念や志を貫くことのたとえ。 「歳寒」は季節の冬。または逆境や苦難という意味。 松や柏などの常緑樹は寒い季節でも緑の葉をつけていることから。 「松柏の操」ともいう。
歳月、人を待たず(さいげつ、ひとをまたず)
時は人の都合などおかまいなしに刻々と過ぎ去っていく。だから時間を無駄にせず大事にせよということ。 「時は人を待たず」ともいう。
三歳の翁、百歳の童子(さんさいのおきな、ひゃくさいのどうじ)
子どもでも知恵も分別もある者もいれば、老人でも無知で愚かな者もいるということ。人の賢さは年齢に左右されないということ。「十歳の翁百歳の童」「八歳の翁百歳の童」ともいう。
男女七歳にして席を同じゅうせず(だんじょしちさいにしてせきをおなじゅうせず)
人は七歳にもなれば、男女の別を明らかにしてみだりに慣れ親しんではならないということ。男女は七歳になったら同じ敷物に座るべきではないという儒教の道徳から。
歳寒くして松柏の凋むに後るるを知る(としさむくしてしょうはくのしぼむにおくるるをしる)
日計足らずして歳計余りあり(にっけいたらずしてさいけいあまりあり)
一見、利益が上がっていないように思えるが、長い目で見ると確実に利益があるということ。日々の計算では儲けがないように見えるが、一年を通じるとちゃんと利益があるという意から。
「花」を含むことわざ
朝顔の花一時(あさがおのはないっとき)
物事の盛りが短く、はかないことのたとえ。朝咲いた朝顔の花が昼を待たずにしぼんでしまうことから。
薊の花も一盛り(あざみのはなもひとさかり)
誰でも年ごろになると、それなりの魅力が出てくるということ。あまり好まれない薊の花も、美しい時期があるという意から。
徒花に実は生らぬ(あだばなにみはならぬ)
どんなに見かけがよくても、実質が伴わなくてはよい成果を上げることはできないということ。「徒花」は、咲いても実を結ばずに散る花。どんなに美しい花を咲かせようとも、実のならない徒花では仕方がないという意から。
雨は花の父母(あめははなのふぼ)
花にとって雨は、養い育ててくれる父母のようなものだということ。
石に花咲く(いしにはなさく)
現実には起こるはずのないことのたとえ。
一輪咲いても花は花(いちりんさいてもはなははな)
たとえ小さく目立たない存在でも、その存在自身には何ら変わりはないということ。
「相」を含むことわざ
相性が悪い(あいしょうがわるい)
相手との性格や考え方、調子などが上手く合わない。 「相性」は「合性」とも書く。
相対のことはこちゃ知らぬ(あいたいのことはこちゃしらぬ)
当人同士が決めたことは自分には無関係だということ。鮎(あゆ)、鯛(たい)、鯒(こち)の魚の名を語呂合わせにしたことば。
相槌を打つ(あいづちをうつ)
相手の話に調子を合わせて頷くこと。「相槌」は鍛冶仕事で鉄を鍛える時、相方と向かい合い交互に槌を打ち合わせること。
相手変われど主変わらず(あいてかわれどぬしかわらず)
相手は次々と変わっているのに、こちらは常に変わらず同じことを繰り返しているということ。「相手変われど手前変わらず」ともいう。
相手にとって不足はない(あいてにとってふそくはない)
相手が相当な実力者で、自分と競い合うのに十分である。
相手のさする功名(あいてのさするこうみょう)
相手の力が弱かったり、やり方が劣っていたために、思わぬ手柄を立てることのたとえ。「さする」は「してくれる」の意。
「似」を含むことわざ
赤子のうちは七国七里の者に似る(あかごのうちはななくにななさとのものににる)
赤ん坊ははっきりした特長がないので、似てると思って見ればあちこちの誰にでも似て見えるということ。「七国七里」は諸所方々のこと。
鵜の真似をする烏(うのまねをするからす)
自分の能力をわきまえず、人の真似をして失敗することのたとえ。鵜は水に潜って巧みに魚を捕るが、烏が真似をして魚を捕ろうと水に潜っても溺れるばかりであるということから。「鵜の真似をする烏水に溺れる」「鵜の真似をする烏水を呑む」ともいう。
往時渺茫としてすべて夢に似たり(おうじびょうぼうとしてすべてゆめににたり)
過ぎ去った昔の事はもうはるかかなたの事で、とりとめがなく、まるで夢のように思えるということ。「往時」は過ぎ去った昔のこと。「渺茫」は遠くはるかで果てしないさま。
親に似ぬ子は鬼子(おやににぬこはおにご)
子どもは当然親に似るものであり、親に似ない子はいないということ。親に似ない子は人間の子ではなく鬼の子であるという意から。
蟹は甲羅に似せて穴を掘る(かにはこうらににせてあなをほる)
人はそれぞれ自分の身分や力量に応じた考え方や行動をするというたとえ。蟹は自分の大きさに合わせて穴を掘るということから。
外面似菩薩、内心如夜叉(げめんじぼさつ、ないしんにょやしゃ)
外面は菩薩のようにやさしく美しいが、内面は夜叉のように邪悪で恐ろしい人のこと。 仏教で、女性が修行の妨げになることを戒めていった言葉。 「外面如菩薩内心如夜叉」ともいう。
「人」を含むことわざ
赤の他人(あかのたにん)
全く無関係の他人。「赤」は名詞の上に付くことでそれを強調し、「全くの」「明らかな」「はっきりした」の意を表す。
商人と屏風は直ぐには立たぬ(あきんどとびょうぶはすぐにはたたぬ)
屏風は折り曲げないと立たないように、商売も自分の感情や理屈を曲げて、客の機嫌を損ねないようにしなければ繁盛しないということ。「屏風と商人は直ぐには立たぬ」ともいう。
商人と屏風は曲がらねば立たぬ(あきんどとびょうぶはまがらねばたたぬ)
屏風は折り曲げないと立たないように、商売も自分の感情や理屈を曲げて、客の機嫌を損ねないようにしなければ繁盛しないということ。 「商人と屏風は直ぐには立たぬ」ともいう。
商人に系図なし(あきんどにけいずなし)
商人には家柄など関係なく、商売の手腕や努力しだいで成功するということ。
商人の嘘は神もお許し(あきんどのうそはかみもおゆるし)
商人が商売上の駆け引きで嘘をつくのは、神様もやむを得ないとお許しになるということ。
商人の子は算盤の音で目を覚ます(あきんどのこはそろばんのおとでめをさます)
人の習性は、育つ環境の影響を大きく受けるということ。商人の子どもは金勘定に敏感で、眠っていても算盤の音で起きるという意から。
「同」を含むことわざ
畦から行くも田から行くも同じ(あぜからいくもたからいくもおなじ)
手段や方法が違っても、同じ結果になることのたとえ。畦道から行っても田から行っても、結局行き着く所は同じということから。
いとこ同士は鴨の味(いとこどうしはかものあじ)
いとこ同士の夫婦は、とても仲がよいということのたとえ。味がいい鴨肉のように、仲がいいという意から。
大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然(おおやといえばおやもどうぜん、たなこといえばこもどうぜん)
借家人にとって家主は親と同様の存在であり、家主にとって借家人は我が子同様の存在だということ。「店子」は、借家人の意。昔の大家と店子の関係をいった言葉。
落ちれば同じ谷川の水(おちればおなじたにがわのみず)
出発点は違っていても、行き着く先は同じだということ。また、人間も身分や貧富の差があっても、死ねば同じ土になるというたとえ。 雨・霰(あられ)・雪など形はさまざまであるが、地上に落ちてくれば同じ谷川を流れる水になるという意から。 「雨霰雪や氷と隔つらん落つれば同じ谷川の水」という和歌より。
同い年夫婦は火吹く力もない(おないどしみょうとはひふくちからもない)
同い年の夫婦は仲が良く、いつも笑ってばかりいるので、火吹き竹を吹いて火をおこすためのふくれっ面もできないということ。
同じ穴の貉(おなじあなのむじな)
一見無関係のように見えて、実は同類・仲間であることのたとえ。多くは悪事をもくろむ者のことをいう。「同じ穴の狐」「一つ穴の貉」「一つ穴の狐」ともいう。