「こ」を含む故事・ことわざ・慣用句
「こ」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 1206 件
目の付け所(めのつけどころ)
特に注目すべき点のこと。
目の寄る所へは玉も寄る(めのよるところへはたまもよる)
同類が自然に寄り集まることのたとえ。 目が一方へ動けば、それにつれて瞳も動くとの意から。
目は心の鏡(めはこころのかがみ)
目を見れば、その人の心の正邪がわかるということ。 目はその人の心を映し出す鏡との意から。
目病み女に風邪引き男(めやみおんなにかぜひきおとこ)
眼病で目がうるんだ女と、風邪をひいている男は色っぽく見えるということ。
目を凝らす(めをこらす)
じっと見つめること。凝視すること。
面目を施す(めんぼくをほどこす)
素晴らしいことをして、世間からの評判を高めること。
沐猴にして冠す(もっこうにしてかんす)
見かけは立派でも中身が愚かな者をあざけって言う言葉。 「沐猴」は猿のこと。 ある者が楚の項羽のことを「冠をかぶって気取っていても中身は猿だ」と評したという故事から。
持って来い(もってこい)
最も適しているようす。うってつけ。
持つべきものは子(もつべきものはこ)
他人ではあてにできない事も、わが子ならばしてくれる。子は持つべきもので、わが子ほどありがたいものはないということ。
元も子も失う(もともこもうしなう)
何もかも失うようす。「元」は元金、「子」は利子でそのどちらも失う意から。
物は言いなし事は聞きなし(ものはいいなしことはききなし)
ものは言い方によって、相手に良くも悪くも受け取られる。また、聞き手の聞き方次第で受け取る感じも違ってくるということ。
物は言い残せ、菜は食い残せ(ものはいいのこせ、さいはくいのこせ)
言葉と食事は少し控えめな方がよいということ。 言葉は言いすぎてしまうことがあるので思ったことを全部言い尽くさないほうがよく、食事はおかずを少し残すくらいのほうが品がよいとの意から。
門戸を成す(もんこをなす)
一家を興すたとえ。また、一派をつくるたとえ。 「門戸を張る」「門戸を構える」ともいう。
門戸を開く(もんこをひらく)
制限せずに、すべての人や物の出入りを自由にすること。
文殊も知恵のこぼれ(もんじゅもちえのこぼれ)
どんなに偉い人でも失敗することがあることのたとえ。 知恵をつかさどる文殊菩薩でさえ失敗することがあるとの意から。
門前の小僧、習わぬ経を読む(もんぜんのこぞう、ならわぬきょうをよむ)
普段から見聞きしていると、知らないうちに覚えてしまうことのたとえ。 寺の前に住んでいる子どもたちは、習わなくても自然に経を読めるようになるとの意から。
薬缶で茹でた蛸(やかんでゆでたたこ)
物事に行き詰まり、どうしようもない様子。また、内に閉じこもり動けない様子。 薬缶で蛸を茹でると、蛸が硬くなり、手も足も出せない状態になることから。
薬石効なし(やくせきこうなし)
薬も治療法もいろいろ試してみたが効果がなく、回復のきざしがみられないということ。「薬石」は薬と石鍼(中国の昔の治療器具)のこと。薬石を用いて治療すること。転じて治療全般を指す。
自棄を起こす(やけをおこす)
物事が思い通りにならず、投げやりな気持ちになること。
野狐禅(やこぜん)
まだ悟っていないのに悟ったつもりになってうぬぼれている禅の修行者を、野ギツネにたとえた言葉。 転じて、生半可な知識で物事を理解したような顔でうぬぼれている人のこと。 「生禅」ともいう。
安きこと泰山の如し(やすきことたいざんのごとし)
どっしりと安定していて、ものに動じない様子のたとえ。 「泰山」は、中国山東省にある大きな山で、その泰山のように落ち着いてどっしりしているとの意から。
痩せ我慢は貧から起こる(やせがまんはひんからおこる)
不自由を我慢するのも、貧乏でどうしようもないからで、好き好んで我慢する者はいないということ。
藪に蛇なかれ村に事なかれ(やぶにへびなかれむらにことなかれ)
藪の中に蛇がいないことを望むように、村(自分の周囲)に何事も起こらずに穏やかであってほしいと望むこと。 「とかく村には事なかれ」「とかく近所に事なかれ」ともいう。
破れても小袖(やぶれてもこそで)
元の品質や価値が高ければ、古くなったり状態が悪くなったりしても相応の値打ちがあるということ。 「小袖」は、絹の綿入れのこと。 小袖が破れたとしても、絹の性質を失うわけではないとの意から。
病膏肓に入る(やまいこうこうにいる)
道楽や趣味などに熱中して、手がつけられなくなることのたとえ。「膏」は心臓の下、「肓」は横隔膜の上の部分で、ともに治療が難しい箇所といわれる。病気がついに膏肓に至ったということから、元来は病気が重くなり治る見込みがなくなったという意。
病は癒ゆるに怠る(やまいはいゆるにおこたる)
病気は治りかかる頃につい油断して養生を怠り再発を招くことが多いということ。病気は治り際が大事だということ。
槍でも鉄砲でも持って来い(やりでもてっぽうでももってこい)
どんな手段を用いても構わないのでかかってこいの意。 固い決意をしたりやけになったりしたときにいう言葉。 「矢でも鉄砲でも持って来い」ともいう。
幽明境を異にする(ゆうめいさかいをことにする)
死に別れること。 「幽」はあの世。「明」はこの世。 死んであの世とこの世の境界を越え、別々になるという意味から。 「幽明処を隔つ(ゆうめいところをへだつ)」ともいう。
勇を鼓す(ゆうをこす)
勇気をふるい起こすこと。
行き大名の帰り乞食(ゆきだいみょうのかえりこじき)
はじめに無計画に金を使い、あとでどうにもならなくなること。 旅に出て、行きは大名のように贅沢に金を使い、帰りは旅費が足りなくなり乞食のようなみじめな思いをするとの意から。
往くに径に由らず(ゆくにこみちによらず)
小細工せずに、正大に事をおこなうことのたとえ。「径」は小道・近道・横道のこと。道を行く時は径を通らずに大通りを行くという意味から。
夢は逆実(ゆめはさかまこと)
夢と現実は逆になるものなので、たとえ悪い夢を見ても気にすることはないということ。 「夢は逆実」ともいう。
熊野松風は米の飯(ゆやまつかぜはこめのめし)
能の「熊野」と「松風」は、米の飯のように誰からも好まれる名曲であるということ。
陽気発する処、金石も亦透る(ようきはっするところ、きんせきもまたとおる)
どんな困難なことでも、精神を集中すればできないことはないということ。 「陽気」は万物が生じて活動しようとする気。 陽気が発生すれば、金属や石のように硬いものでも貫くとの意から。
横板に雨垂れ(よこいたにあまだれ)
詰まりながら話すことのたとえ。 「立て板に水」をもじった言葉。
横紙破り(よこがみやぶり)
自分の考えを無理に押し通すこと。また、そういうことをする人。和紙は縦に目が通っているため、横には破りにくいが、それを無理やり横に破ることから。
横車を押す(よこぐるまをおす)
道理に合わないことを無理に押し通すこと。車を無理やり横に押して動かそうとする意から。
横槌で庭掃く(よこづちでにわはく)
急な来客にあわてふためきながらも手厚くもてなそうとすることのたとえ。 「横槌で庭掃く」「才槌で庭掃く」ともいう。
横手を打つ(よこでをうつ)
感じ入ったり、思い当たったりする時などに、思わず両方の手のひらを打ち合わせること。
横になる(よこになる)
体を横にして休むこと。寝ること。
横の物を縦にもしない(よこのものをたてにもしない)
面倒くさがって、簡単にできることもしないことのたとえ。 横着な人のたとえ。 「縦の物を横にもしない」ともいう。
横目を使う(よこめをつかう)
顔の向きは変えずに、目だけを動かして横を見ること。
横槍を入れる(よこやりをいれる)
他人の話や仕事に、はたから文句をつけること。
横を向く(よこをむく)
相手を見ずに別の方を見ること。または、相手にしない態度をとること。無視すること。 「横を向く」ともいう。
世に聞こえる(よにきこえる)
広く世間に知れ渡ること。
余の辞書には不可能という言葉はない(よのじしょにはふかのうということばはない)
自分には不可能なことはないということ、世の中には出来ないことなどないということ。「余」は「予」とも書く。通説としてナポレオンの言葉といわれている。
世の中は年中三月常月夜、嬶十七俺二十、負わず借らずに子三人(よのなかはねんじゅうさんがつじょうつきよ、かかあじゅうしちおれはたち、おわずからずにこさんにん)
世の中は、いつも三月頃の温暖な気候で、夜は明るい月夜、妻は十七歳自分は二十歳、責任も借金もなく、子どもは三人持つ暮らしが望ましいということ。江戸時代の庶民のささやかな願望をいった言葉。
夜鶴子を思う(よるのつるこをおもう)
子を思う親の情愛が深いことのたとえ。 「雉」はきじのこと。 雉は野を焼かれたら危険を顧みずに巣にいる子どもを助けに戻り、鶴は霜の降りる寒い夜には自分の羽を広げて子を暖めるとの意から。 単に「焼け野の雉」「夜の鶴」、また「夜鶴子を思う」「子を思う夜の鶴」ともいう。 「焼け野の雉」は、身を隠すところのない雉のことから、危険にさらされることのたとえとしてもいわれる。
喜んで尻餅をつく(よろこんでしりもちをつく)
物事が成功して有頂天になり、失敗を招いてしまうことのたとえ。
弱みに付け込む風邪の神(よわみにつけこむかぜのかみ)
悪いことが重なることのたとえ。
来年の事を言えば鬼が笑う(らいねんのことをいえばおにがわらう)
来年のことはわからない。未来のことは予測できないというたとえ。
理屈上手の行い下手(りくつじょうずのおこないべた)
理屈を言うのは上手だが、いざ実践となるとさっぱりだめなこと。
理屈と膏薬はどこへでも付く(りくつとこうやくはどこへでもつく)
体のどこにでも付く膏薬のように、理屈はつけようと思えば、どんなことにでも、もっともらしくつけられるということ。
理屈を捏ねる(りくつをこねる)
正当化するために、あれこれと無理筋な理屈を言うこと。
律義者の子沢山(りちぎもののこだくさん)
律義者は、品行方正で家庭円満なので、夫婦仲もよく子どもが多く生まれるということ。
六国を滅ぼす者は六国なり(りっこくをほろぼすものはりっこくなり)
国が滅びるのは、国の内部に原因があるということ。また、悪い結果の原因は、自分自身にあることが多いことのたとえ。 「六国」は中国、戦国時代の斉(せい)・楚(そ)・燕(えん)・韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)のこと。 六国が滅びたのは六国相互の争いの結果によるもので、他の国に滅ぼされたわけではないとの意から。
竜虎相搏つ(りゅうこあいうつ)
強豪同士が勝負を競うこと。
竜と心得た蛙子(りゅうとこころえたかえるこ)
子どもに対する親の見込み違いのたとえ。 将来は竜になると期待していたわが子も、やはり蛙の子にすぎなかったとの意から。
凌雲の志(りょううんのこころざし)
俗世間を超越した気高い志のこと。また、出世しようとする志。「凌雲」は雲を凌ぐほどに高い意。「陵雲」とも書く。
良工は材を択ばず(りょうこうはざいをえらばず)
すぐれた技術を持つ人は、材料の良し悪しなど問題にしないということ。
良賈は深く蔵して虚しきが如し(りょうこはふかくぞうしてむなしきがごとし)
賢者は自分の才能や知識をみだりにひけらかしたりしないことのたとえ。 「良賈」はすぐれた商人の意。 すぐれた商人は商品を店の奥にしまっておくため、一見商品が乏しいように見えることから。
遼東の豕(りょうとうのいのこ)
世間知らずが、つまらない事を自慢して得意になることのたとえ。遼東では珍しいとされた白頭の豚が、河東ではありふれたもので、君子に白頭の豚を献上しようとした男が、その事を恥じて遼東に帰ったという故事から。
林間に酒を煖めて紅葉を焼く(りんかんにさけをあたためてこうようをたく)
林の中で紅葉を燃やして酒を暖めて飲み、秋の風情を楽しむこと。
悋気は恋の命(りんきはこいのいのち)
やきもちを焼くのは、恋をしている証拠で焼かれなくなったらお終いだということ。
ルビコンを渡る(るびこんをわたる)
重大な決断をするたとえ。「ルビコン」はイタリア北部のルビコン川のことで、古代ローマの英雄カエサルが軍隊を引き連れてこの川を渡り、ローマに宣戦布告をしたことにもとづく。
礼儀も事による(れいぎもことによる)
礼儀作法を守ってさえいればいいというものではなく、事と場合によっては、礼儀が二の次になることもあるということ。
輦轂の下(れんこくのもと)
皇居のある地のこと。「輦轂」は天子の乗り物のことで、天子の乗る車の下の意から。
労多くして功少なし(ろうおおくしてこうすくなし)
苦労したわりには成果が出ないこと。
老骨に鞭打つ(ろうこつにむちうつ)
年老いた体に鞭を打つようにして、力のかぎり物事に当たることのたとえ。
籠鳥雲を恋う(ろうちょうくもをこう)
拘束された者が自由な境遇をうらやむことのたとえ。また、故郷を恋しく思うことのたとえ。 籠の鳥が空の雲を恋しく思うことから。 「籠の鳥、雲を慕う」ともいう。
論より証拠(ろんよりしょうこ)
議論するより証拠を示すほうが物事は明らかになるということ。
若い時の苦労は買うてもせよ(わかいときのくろうはこうてもせよ)
若い時の苦労は将来役に立つ貴重な経験となるから、自分から進んで苦労するほうがよいということ。
若木に腰掛けな(わかぎにこしかけな)
若者は頼りにならないことのたとえ。また、将来性のある若者を踏みつけにするなということ。 若い木は折れやすいから腰掛けてはいけないということ。
我が心石に非ず、転ずべからず(わがこころいしにあらず、てんずべからず)
心が確固として不動であることのたとえ。 自分の心は石ではないから、転がして動かすことはできないということ。
吾が心秤の如し(わがこころはかりのごとし)
私の心は、秤(はかり)のように公平であるということ。 どちらか一方に偏ったり、私情を交えたりしないという意味。
我が心を獲たり(わがこころをえたり)
他人の言葉や行いが、自分の心にぴったり適っていること。
我が子自慢は親の常(わがこじまんはおやのつね)
親は誰でも我が子を自慢したがるということ。
我が事終わる(わがことおわる)
自分が関わっていることが全て終わること。なすべきことがないこと。
我が事と下り坂に走らぬ者なし(わがこととくだりざかにはしらぬものなし)
自分に関することとなれば、下り坂で自然と早足になるように、自ら進んで走りまわるということ。
我が子の悪事は見えぬ(わがこのあくじはみえぬ)
親は自分の子をひいきしがちで、欠点や過ちに気づかないものだということ。