「し」を含む故事・ことわざ・慣用句
「し」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 2073 件
仏造って魂入れず(ほとけつくってたましいいれず)
ほとんど仕上がっているのに、肝心な部分が抜け落ちていること。 仏像を作っても、魂を入れ忘れるとの意から。
仏も昔は凡夫なり(ほとけもむかしはぼんぷなり)
どんな人間でも努力すれば、仏のように立派になれるということ。 釈迦も元は凡夫だったが、修行の末に悟りを開くことができたとの意から。 「仏も本は凡夫なり」ともいう。
骨が舎利になっても(ほねがしゃりになっても)
たとえ死んでも。どんなに辛くても。 強い決意を表す言葉。 「舎利」は火葬した後の骨のこと。
骨を惜しむ(ほねをおしむ)
苦労することを嫌がって、やるべきことをやらないこと。
ホメロスすら時に失策を犯す(ほめろすすらときにしっさくをおかす)
どんなにすぐれた人でも、時には失敗することがあるというたとえ。 ホメロスのような大詩人でさえ、時には眠くなるような凡作を作ることがあるとの意から。 「ホーマー」はホメロスの英語名。
蒲柳の質(ほりゅうのしつ)
からだが弱く、病気になりやすい体質のこと。「蒲柳」は、川柳の異名。細く弱そうで、秋になると他の木々より早く散ることから。
惚れた病に薬なし(ほれたやまいにくすりなし)
恋わずらいは、治す薬もなく、どうすることもできないということ。
本腰を入れる(ほんごしをいれる)
全力で取り組むこと。真剣に取り組むこと。
望蜀(ぼうしょく)
一つの望みを遂げて、さらに次を望むこと。人間の欲望には、限りがないということのたとえ。後漢書の「既に隴(ろう)を得て、また蜀を望む」から。
坊主捨て置け医者大事(ぼうずすておけいしゃだいじ)
急病の時は、急いで医者を呼ぶのが大事だということ。
坊主の花簪(ぼうずのはなかんざし)
持っていても何の役に立たない物のたとえ。「花簪」は造花などで飾ったかんざしのことで、坊主には役に立たないことから。
坊主の不信心(ぼうずのふしんじん)
他人には立派なことを言いながら、その人自身は実行が伴わないことのたとえ。 人に信仰を説く坊主が信仰心がないとの意から。
墨守(ぼくしゅ)
自説を守って譲らないこと。中国の思想家の墨子が、楚の国の攻撃を九度にわたって退け、城を守ったという故事から。
牡丹に唐獅子、竹に虎(ぼたんにからじし、たけにとら)
絵になる取り合わせのよいもののたとえ。
襤褸を着ても心は錦(ぼろをきてもこころはにしき)
たとえぼろぼろの衣服を着ていても心の中は錦を着ているように美しい。外見よりも内面が大事だということ。
盆と正月が一緒に来たよう(ぼんとしょうがつがいっしょにきたよう)
うれしいことが重なることのたとえ。また、非常に忙しいことのたとえ。
前十両に後ろ三両(まえじゅうりょうにうしろさんりょう)
前から見ると美しいが、後姿はそれほどでもないということ。
前を踏み後ろにつまずく(まえをふみうしろにつまずく)
前に進むことも後ろに下がることもできないというたとえ。
曲がった釜には曲がった甑(まがったかまにはまがったこしき)
どんなものにも、それにふさわしい相手や形があるというたとえ。 また、夫婦は似た者同士がつり合いがとれてうまくいくということ。 ゆがんだ釜であっても、それに合うゆがんだ甑があるとの意から。 「甑」は、釜の上にのせて穀物を蒸す道具。
枕を高くして寝る(まくらをたかくしてねる)
気にかかることがなく安眠することのたとえ。心配ごとが何もないさまをいう。
負け惜しみの減らず口(まけおしみのへらずぐち)
負けた者が強情を張って憎まれ口を叩くこと。
負け博打のしこり打ち(まけばくちのしこりうち)
博打に負けた者が、負ければ負けるほど博打を打つこと。
馬子にも衣装(まごにもいしょう)
誰でも外面を飾ると立派に見えるというたとえ。
まさかの時の友こそ真の友(まさかのときのともこそしんのとも)
苦しい状況の時、助けてくれる友こそ本当の友だちだということ。
間尺に合わない(ましゃくにあわない)
割りに合わないこと。損になること。「間尺」は割合、計算。
松かさより年かさ(まつかさよりとしかさ)
年長者の経験豊富な知識は役に立つということ。 「松かさ」と「年かさ」の語呂を合わせておもしろく言ったもの。
松の木柱も三年(まつのきばしらもさんねん)
その場だけを切り抜けるなら、どんなものでも役に立つというたとえ。腐りやすい松の柱でも三年くらいは持つということから。
的を絞る(まとをしぼる)
話題や問題として取りあげる対象を限定すること。
学びて思わざれば則ち罔し(まなびておもわざればすなわちくらし)
いくら学んでも、自ら思索しなければ、真理に到達することはできないということ。
学びて時に之を習う亦説ばしからずや(まなびてときにこれをならうまたよろこばしからずや)
勉強したことを、折にふれて復習するということは、いっそう理解を深めることになる。なんと楽しいことではないかということ。
学ぶのに年を取り過ぎたということはない(まなぶのにとしをとりすぎたということはない)
学ぶことに年齢の制限はなく、いくつになっても新しい知識を得ることができるということ。学びには終わりがないため、一生を通じて学び続けることが大切であるという考え。 英語の 「Never too late to learn(学ぶのに遅すぎることはない) 」に由来する表現であり、ローマの哲学者・詩人セネカの言葉とされる。
迷わぬ者に悟りなし(まよわぬものにさとりなし)
疑問や迷いを持たない人は悟ることもない。おおいに迷うからこそ悟りも開けるということ。
丸い卵も切りようで四角(まるいたまごもきりようでしかく)
物事は話し方、やり方しだいで円満にいくこともあれば、角が立つこともあるというたとえ。丸い卵も切り方によっては四角になるということから。「ものも言いようで角が立つ」あとに続けてもいう。
真綿で首を絞める(まわたでくびをしめる)
遠まわしに、じわじわといじめたり痛めつけたりすることのたとえ。柔らかい真綿で首を絞めると、じわじわと絞まって時間がかかり余計に苦しむことから。
慢心鼻を弾かる(まんしんはなをはじかる)
おごり高ぶっていると、大恥をかくはめになるから注意せよということ。
まんじりともしない(まんじりともしない)
不安なことや気になることがあり、少しも眠れないさま。 「まんじり」は、少し眠るさま。
見掛け倒し(みかけだおし)
看板だけが立派で、実情が伴わないこと。 見かけはよくても、内容が乏しいこと。
味方見苦し(みかたみぐるし)
味方ばかり贔屓(ひいき)する行為は、不公平で見苦しいということ。
神輿を上げる(みこしをあげる)
座り込んでいた人が立ち上がるたとえ。また行動をおこして仕事にとりかかること。「輿」と「腰」を掛けたことば。
見知らずの口叩き(みしらずのくちたたき)
自分の身のほども知らずに、大きなことを言うこと。
自ら卑うすれば尚し(みずからひくうすればたっとし)
へりくだって驕らない人は他人から尊敬され、自然と尊くなるということ。
水の滴るよう(みずのしたたるよう)
若々しくて美しいようすの形容。
水の低きに就くが如し(みずのひくきにつくがごとし)
水が低い方へ流れていくように、物事のなりゆきは止めようとしても止められないということ。
水は方円の器に随う(みずはほうえんのうつわにしたがう)
人は交友関係や環境しだいで、良くも悪くもなるというたとえ。 「方円」は四角形と円形のこと。水は容器の形によって四角にも丸くもなるということから。
店を閉める(みせをしめる)
商売をやめて廃業すること。
味噌に入れた塩は他所へは行かぬ(みそにいれたしおはよそへはいかぬ)
他人に尽くすことは、一見無駄のように見えても、結局は自分のためになるということ。 味噌に入れた塩は、混じって見えなくなるが、味噌の味を調えるための役に立っているとの意から。
味噌も糞も一緒(みそもくそもいっしょ)
見た目が似ていれば、良いものも悪いものも同じように扱うこと。すべてをごちゃまぜにしてしまうこと。 「糞も味噌も一緒」「糞も味噌も一つ」ともいう。
三度諌めて身退く(みたびいさめてみしりぞく)
繰り返し主君をいさめても聞き入れられない時は、潔く辞職するのが賢明だということ。
見たら見流し、聞いたら聞き流し(みたらみながし、きいたらききながし)
見たり聞いたりしたことは、みだりに口外しないほうがよいということ。
三つ叱って五つほめ、七つ教えて子は育つ(みっつしかっていつつほめ、ななつおしえてこはそだつ)
子どもは少し叱って多くほめ、たくさん教えて育てるのがいいということ。
三つ子の魂百まで(みつごのたましいひゃくまで)
幼い時の性格は、年をとっても変わらないということ。
源清ければ流れ清し(みなもときよければながれきよし)
清らかな水源を持った川は、下流も自然に清らかになるように、上に立つ者の行いが正しければ、下の者の行いも正しくなるということ。
見ぬが心憎し(みぬがこころにくし)
物事は実際に見るまでの間に心の中であれこれと想像しているときが楽しいということ。 「見ぬが心憎し」ともいう。
見ぬ事は話にならぬ(みぬことははなしにならぬ)
一度見てみないと、人に話せないということ。
見ぬは極楽、知らぬは仏(みぬはごくらく、しらぬはほとけ)
見たり知ったりすれば腹が立つことも、わからなければ穏やかな気持ちでいられるということのたとえ。 不愉快な事も、見なければ極楽気分でいられるし、知らなければ仏様のように心穏やかでいられるとの意から。
見ぬ物清し(みぬものきよし)
見なければ、汚い物事も気にせずにいられるということ。 「見ぬこと清し」ともいう。
実の生る木は花から知れる(みのなるきははなからしれる)
すぐれた人物は、子どもの頃から凡人とは違うというたとえ。 よく実のなる木は、花が咲くときからわかるとの意から。 「実を結ぶ木は花より知らるる」「生る木は花から違う」ともいう。
身は習わし(みはならわし)
人は環境や習慣次第でどのようにも変化するものだということ。
耳を貴び、目を賤しむ(みみをたっとび、めをいやしむ)
遠くのものを尊重して、近くのものを軽んじることのたとえ。また、昔を重んじて今を軽視することのたとえ。 人から聞いたことは信じて、自分の目で見たものは信じないとの意から。 「耳を信じて目を疑う」ともいう。
見るに忍びない(みるにしのびない)
あまりにも気の毒で、見ているのがつらい様子。
身を沈める(みをしずめる)
おちぶれて、不幸な境遇に身をおくこと。
無為にして化す(むいにしてかす)
人徳のある人が上に立つと、特別なことは何もしなくても、世の中は自然に治まるということ。 「無為にして治まる」「無為の治」ともいう。
昔から言う事に嘘はない(むかしからいうことにうそはない)
昔から言い伝えられてきた格言やことわざは、多くの先人の経験や知識からできたものなので、どれも真理であるということ。
昔千里も今一里(むかしせんりもいまいちり)
すぐれた人も、年をとれば凡人に劣ってしまうということ。 昔は千里を行くことができた駿馬も、今では一里しか行くことができないとの意から。
昔年寄りに弱い者なし(むかしとしよりによわいものなし)
年寄りに昔話を聞くと、若い頃に弱かった人は一人もいないことになるということ。年寄りの自慢話をからかうことば。
昔取った杵柄(むかしとったきねづか)
若い頃に習得した技量や腕前のこと。また、年月を経てもそれが衰えず十分に発揮できること。
昔の剣、今の菜刀(むかしのつるぎ、いまのながたな)
昔は有能であった人も、年をとると役に立たなくなるというたとえ。また、いくら良いものでも今の役にたたないものより、つまらないものでも今の役にたつもののほうがいいということ。
昔は今の鏡(むかしはいまのかがみ)
昔のことは現代の手本になるので、歴史を学ぶことが将来に役立つということ。
昔は肩で風を切り、今は歩くに息を切る(むかしはかたでかぜをきり、いまはあるくにいきをきる)
昔は威勢のよかった者が、今は衰えてしまったことのたとえ。若いころは肩で風を切ってさっそうと歩いていた者も、年をとって歩くだけで息切れするということから。
昔は昔、今は今(むかしはむかし、いまはいま)
昔と今は状況が違うのだから、昔がこうだから今もこうあるべきだという理屈は成り立たないということ。
麦と姑は踏むが良い(むぎとしゅうとめはふむがよい)
麦は根の張りをよくするために芽を足で踏むほうがよいが、姑に対しても下手にばかり出ないで、時には抵抗するのも必要であるということ。
婿は座敷から貰え、嫁は庭から貰え(むこはざしきからもらえ、よめはにわからもらえ)
婿は自分の家より家柄がよい家から貰うと家の格が上がり、嫁は自分の家より低い家柄から貰うと威張らずによく働くので家のためによいということ。 「婿は大名から貰え嫁は灰小屋から貰え」「嫁は下から婿は上から」ともいう。
虫がいい(むしがいい)
物事を何でも自分にとって都合のいいように考えるさま。 自己中心的で身勝手であるさま。 「虫のいい」ともいう。
虫が知らせる(むしがしらせる)
なんとなく感じるたとえ。予感がすること。
虫が好かない(むしがすかない)
なんとなく気にくわないこと。
虫が付く(むしがつく)
未婚の女性に好ましくない恋人ができること。
虫酸が走る(むしずがはしる)
不快でたまらず、ひどく嫌うことのたとえ。 「虫酸」は胃から出る酸っぱい液体のことで、その液が逆流して吐き気を覚える意から。
虫でも向かってくるものである(むしでもむかってくるものである)
小さく弱いものでもそれ相応の意地があるから、場合によっては強敵に立ち向かうこともある。どんな相手でもあなどってはいけないということ。
虫の息(むしのいき)
呼吸が弱弱しくて今にも止まりそうなようす。
虫の居所が悪い(むしのいどころがわるい)
機嫌が悪くて怒りやすくなっていることのたとえ。