「り」で終わる故事・ことわざ・慣用句
「り」で終わる故事・ことわざ・慣用句 — 302 件
愛は憎しみの始めなり(あいはにくしみのはじめなり)
愛と憎しみは紙一重であり、一歩間違えると愛情は憎悪に変わることがある。愛情を抱く際には、節度やバランスを保つことが大切だということ。 「愛は憎しみの始めなり」ともいう。
青い鳥(あおいとり)
身近にあって気づかない幸福のたとえ。チルチルとミチルの兄妹が、幸せを招くという青い鳥を探して旅に出るが、実は青い鳥は自分の家の鳥かごにいたというメーテルリンク作の童話劇「青い鳥」から。
青葉は目の薬(あおばはめのくすり)
青葉のみずみずしい緑色を見ると目の疲れが癒されるということ。
商いは本にあり(あきないはもとにあり)
商売の成功・失敗は、元手に左右されるということ。
悪は一旦の事なり(あくはいったんのことなり)
一時的にうまくいっても悪は長続きせず、結局は正義に勝てないということ。
悪法もまた法なり(あくほうもまたほうなり)
たとえ悪い法律であっても、廃止されるまではその法に従わなければならにということ。
上げたり下げたり(あげたりさげたり)
褒めたり貶したりして、本音がわからないようす。
朝雨と女の腕捲り(あさあめとおんなのうでまくり)
朝の雨はすぐにやむため、女が腕まくりをして強がるのと同様、恐れるに足りないということ。 「俄雨(にわかあめ)と女の腕捲り」ともいう。
朝寝坊の宵っ張り(あさねぼうのよいっぱり)
朝は遅くまで寝ている人は、夜遅くまで起きていてることが多いということ。また、それが習慣になっている人のこと。
薊の花も一盛り(あざみのはなもひとさかり)
誰でも年ごろになると、それなりの魅力が出てくるということ。 あまり好まれない薊の花も、美しい時期があることから。
朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり(あしたにみちをきかばゆうべにしすともかなり)
朝に人の生きるべき道を悟ることができれば、その夕方に死んだとしてもかまわないということ。
葦を啣む雁(あしをふくむかり)
物事を行うときの準備が完全なこと。 雁が海を渡って遠くへ飛ぶとき、海上で羽を休めるために枯れ葦を口にくわえて行くことから。
与えるは受けるより幸いなり(あたえるはうけるよりさいわいなり)
人に対して恩恵を与えることが出来る立場や境遇にあることは、恩恵を受ける立場よりも幸福であるということ。
頭でっかち尻すぼり(あたまでっかちしりすぼり)
最初は威勢よく、だんだん勢いがなくなり、最後はだらしなくなること。
あだし野の露、鳥辺野の煙(あだしののつゆ、とりべののけむり)
人生の無常、はかなさのたとえ。 「あだし野」は、京都の嵯峨野にあった墓地。 「鳥辺野」は、京都の東山にあった火葬場。 人生を、はかなく消える墓地の露と火葬場の煙にたとえた言葉。 「あだし野」は「仇野」「徒野」、「鳥辺野」は「鳥部野」とも書く。 「鳥辺野」は「鳥部山」ともいう。
後の祭り(あとのまつり)
手遅れ。時機を逃したため、何の役にも立たないことのたとえ。
姉女房は身代の薬(あねにょうぼうはしんだいのくすり)
夫より年上の妻は家計のやりくりもうまく、夫に尽くすので、家庭が円満であるということ。
余り茶に福あり(あまりちゃにふくあり)
余っている物の中にも、思いがけずよいものがあるということ。
網にかかるは雑魚ばかり(あみにかかるはざこばかり)
悪事をはたらいても捕まるのは小物ばかりで、大物は巧みに逃げてなかなか捕まらないということ。
過ちは好む所にあり(あやまちはこのむところにあり)
過ちは、自分の好きな事や得意な事をしている時に、つい油断して起こるということ。
争い果てての棒乳切り(あらそいはててのぼうちぎり)
時機に遅れて何の役にも立たないことのたとえ。 「棒乳切り」は棒の切れ端のこと。 喧嘩が終わってから、棒切れを持ち出しても役に立たないことから。 「争い果てて」は「諍い果てて」や「喧嘩過ぎて」、「棒乳切り」は「乳切り木(千切り木)」などともいう。
蟻の熊野参り(ありのくまのまいり)
多くの人が、ひっきりなしにぞろぞろ列を作って行くこと。昔、紀伊国(和歌山県)の熊野に参詣する人々が、まるで蟻の行列のように長く続いていたことから。
合わぬ蓋あれば合う蓋あり(あわぬふたあればあうふたあり)
どんな入れ物にも合う蓋と合わない蓋があるように、人にも物にもそれぞれふさわしい組み合わせがあるということ。
行き当たりばったり(いきあたりばったり)
あらかじめ計画を立てずに、成り行きに任せること。無計画。
行く行くの長居り(いくいくのながおり)
「もう帰る、もう帰る」と言いながら、なかなか帰らずいつまでも話し込んで長居をすること。
痛い上の針(いたいうえのはり)
不運や災難にさらなる不運や災難が重なることのたとえ。 痛みがあるところに、さらに針が刺さるとの意から。
鼬なき間の貂誇り(いたちなきまのてんほこり)
自分よりすぐれたもの、強いものがいない間に大威張りすることのたとえ。 天敵の鼬(いたち)がいない時だけ、貂(てん)が威張るとの意から。
鼬の道切り(いたちのみちきり)
交際や音信が途絶えることのたとえ。 鼬(イタチ)は一度通った道は二度と通らないといわれることから。 「鼬の道を切る」「鼬の道が切れる」「鼬の道」ともいう。
至れり尽くせり(いたれりつくせり)
配慮が細かく行き届いていて申し分ない。
韋駄天走り(いだてんばしり)
非常に速く走ること。 「韋駄天」は、非常に足が速いとされる仏法の守護神。 その韋駄天のような速さで走るとの意から。
一日の計は朝にあり(いちじつのけいはあしたにあり)
一日の計画は朝のうちに立てるべきであるということ。何事も最初が肝心であるというたとえ。
一に看病、二に薬(いちにかんびょう、ににくすり)
病気を治すためには、まず第一に行き届いた看病が重要で、薬はその次であるということ。
一日の計は朝にあり一年の計は元旦にあり(いちにちのけいはあさにありいちねんのけいはがんたんにあり)
一日の計画は朝のうちに立て、一年の計画は元旦に立てよということ。
市に虎あり(いちにとらあり)
事実ではないことでも、多くの人が同じことを言えば、やがては信じられるようになることのたとえ。 「市」は街、また市場のこと。 一人や二人では信じないが、三人もの人が市に虎がいると言えば、事実でなくても信じ込んでしまうとの意から。 「市に虎あり」「三人、虎を成す」「市に虎あり」「市虎三伝」「三人成虎」などともいう。
一年の計は元旦にあり(いちねんのけいはがんたんにあり)
一年の計画は元旦に立てるべきであるということ。何事も最初が肝心であるというたとえ。
一巻の終わり(いっかんのおわり)
一巻からなる物語が終了すること、転じて死ぬこと。または、手遅れであること。 活動写真の弁士(上映の進行を説明する人)が上映の終わりに言う決まり文句。
一点張り(いってんばり)
一つのことだけを押し通すこと。 博打で、同じ一か所だけに金を賭け続けるとの意から。
一本槍(いっぽんやり)
一つの方法や姿勢を終始押し通すこと。また、一本の槍だけで勝負を決めること。
入り船あれば出船あり(いりふねあればでふねあり)
港に入ってくる船もあれば出て行く船があるように、世の中のことはさまざまであるということ。
入れ替わり立ち替わり(いれかわりたちかわり)
次から次へと絶え間なく人が現れるさま。
色男、金と力はなかりけり(いろおとこ、かねとちからはなかりけり)
美男子は、経済力も腕力もないものだということ。美男子をからかった川柳。
陰徳あれば必ず陽報あり(いんとくあればかならずようほうあり)
人知れず善い行いをする者には、必ず善い報いがあるということ。
魚心あれば水心あり(うおごころあればみずごころあり)
相手が好意を示せば、こちらもまた好意を持つ。 先方の出方次第で、こちらの態度が決まるということ。 もとは「魚、心あれば、水、心あり」で魚と心、水と心が一語化したものといわれる。 魚が水に好意を示せば、水もその魚に好意を持つであろうという意味から。 「水心あれば魚心」「網心あれば魚心」ともいう。
牛に引かれて善光寺参り(うしにひかれてぜんこうじまいり)
人に連れられてある場所へ出かけて行くこと。また、自分の意思ではなく他人の誘いによって、よい方向に導かれることのたとえ。 善光寺の近くに住んでいた不信心な老婆が布をさらしていると、その布を牛が角にひっかけて逃げてしまった。老婆は牛を追いかけて善光寺に着き、その縁によって信仰するようになったという故事から。
牛も千里馬も千里(うしもせんりうまもせんり)
早い遅い、上手い下手の違いがあっても結局は同じところに到達するというたとえ。牛がゆっくりと歩いても馬が早く走っても千里の道のりはやはり千里で、同じ目的地に着くことから。
嘘つきは泥棒の始まり(うそつきはどろぼうのはじまり)
平気で嘘をつくようになると、泥棒をするのも平気になるということ。
内弁慶外すばり(うちべんけいそとすばり)
家の中では威張っているが外では意気地がない弱虫のこと。「すばり」は小さく縮こまること。
鰻登り(うなぎのぼり)
物事の段階がみるみるうちに急上昇することのたとえ。うなぎが水中をくねくねと真っ直ぐに上ることから。
生まれたあとの早め薬(うまれたあとのはやめぐすり)
時機に間に合わず、何の役にも立たないことのたとえ。 赤ん坊が生まれた後で、出産を促す薬を飲むとの意から。
運は天にあり(うんはてんにあり)
人の運命は天命によるもので、人力ではどうにもできないということ。
英雄、閑日月あり(えいゆう、かんじつげつあり)
英雄といわれるほどの人物は小事にとらわれず悠然としているので、傍から見ると暇な日々を送っているように見えるということ。 「閑日月」は、暇な月日、また気分がゆったりしていること。
えせ侍の刀弄り(えせざむらいのかたないじり)
実力の乏しい者ほど外見をとりつくろうことのたとえ。 「えせ侍」は武士の心得がない臆病な侍のこと。 えせ侍にかぎって人前で刀を抜いて虚勢を張るとの意から。
縁あれば千里(えんあればせんり)
縁があれば千里も離れた所の人と会うこともあるし、結ばれることもあるということ。「縁あれば千里を隔てても会い易し、縁なければ面を対しても見え難し」を略した言葉。
鴛鴦の契り(えんおうのちぎり)
夫婦仲の睦まじいことのたとえ。「鴛」はおしどりの雄、「鴦」はおしどりの雌で、雌雄がいつも寄り添っていることから。
遠慮なければ近憂あり(えんりょなければきんゆうあり)
遠い将来を見越した考えを持っていないと、必ず急な憂い事が起こるということ。 「遠慮」は、先々のことを思慮すること。 「近憂」は、間近の憂い事のこと。 「遠き慮りなき者は必ず近き憂えあり」ともいう。
往時渺茫としてすべて夢に似たり(おうじびょうぼうとしてすべてゆめににたり)
過ぎ去った昔の事はもうはるかかなたの事で、とりとめがなく、まるで夢のように思えるということ。「往時」は過ぎ去った昔のこと。「渺茫」は遠くはるかで果てしないさま。
大男の殿(おおおとこのしんがり)
からだばかり大きいくせに、いつも人に後れを取る男をあざけっていう言葉。
大取りより小取り(おおどりよりこどり)
一度に大儲けしようとするより、少しずつ確実に儲けていくほうが堅実だということ。
お冠(おかんむり)
機嫌が悪い様子。 「冠を曲げる」に由来する。
男は敷居を跨げば七人の敵あり(おとこはしきいをまたげばしちにんのてきあり)
男が世の中に出て活動するようになると、多くの競争相手や敵に出会うということのたとえ。 男が敷居を跨いで外に出れば七人の敵がすでに待ち構えているとの意から。 「敷居を跨げば七人の敵あり」「男子家を出ずれば七人の敵あり」ともいう。
男勝り(おとこまさり)
女性の気持ちや性質が男性よりもしっかりとしていること。また、そのような女性。
親の光は七光り(おやのひかりはななひかり)
親の地位や名声のおかげで、子どもが恩恵を受け得をすること。
お山の大将俺一人(おやまのたいしょうおれひとり)
小さな集団や狭い世界の中で、自分が一番偉いと得意になって威張っている人のこと。
及ばぬ鯉の滝登り(およばぬこいのたきのぼり)
どんなに頑張ってもとうてい不可能なことのたとえ。また、いくら望んでも見込みのない恋のたとえ。「及ばぬ恋」と「鯉の滝登り」をかけていった言葉。
折も折(おりもおり)
ちょうどその時。この大事な時にあたって。
愚か者に福あり(おろかものにふくあり)
愚か者は欲も野心もないので、人に恨まれたり憎まれたりすることもなく、平穏無事で幸福な人生を送ることができるということ。
陰になり日向になり(かげになりひなたになり)
あるときは表立って、あるときは人知れず、誰かに尽くしたり援助したりする様子。
霞に千鳥(かすみにちどり)
ふさわしくないことのたとえ。また、あり得ないことのたとえ。霞は春のもの、千鳥は冬の鳥であることから。
風の便り(かぜのたより)
どこからともなく伝わってくる噂のこと。
風の前の塵(かぜのまえのちり)
物事のはかないことのたとえ。また、危険が間近に迫っていることのたとえ。塵は風にひとたまりもなく吹き飛ばされてしまうことから。
金の光は七光(かねのひかりはななひかり)
金持ちの威光が広く及ぶようす。「七光り」は親などの威光で利益を受けること。
金は良き召し使いなれど悪しき主なり(かねはよきめしつかいなれどあしきしゅなり)
金は自分の意思で運用しているうちはよいが、金に使われるようになると害をもたらすという戒め。
壁に耳あり障子に目あり(かべにみみありしょうじにめあり)
どこで誰が見たり聞いたりしているかわからないので、話す内容には十分気をつけなくてはいけないという戒めの言葉。 密かに話しているつもりでも、壁に耳を当てて聞いたり、障子に穴をあけてのぞいたりしている者がいるかもしれないとの意から。 「壁に耳障子に目」「壁に耳」「壁に耳あり」「障子に目」などともいう。
剃刀の刃渡り(かみそりのはわたり)
非常に危険で、失敗したら身を損ない兼ねない行動をすること。
雁の便り(かりのたより)
便り、手紙のこと。 中国前漢の蘇武が、匈奴に捕らえられた時、自分の生存を知らせる手紙を雁の足に結んで放ったという故事から。 「雁札」「雁帛」「雁の使い」「雁の便り」「雁の玉章」ともいう。
軽い返事に重い尻(かるいへんじにおもいしり)
簡単に引き受けて、なかなか実行しないことのたとえ。 返事はすぐにしても、なかなか尻を上げないとの意から。
彼も人なり、我も人なり(かれもひとなり、われもひとなり)
彼も自分と同じ人間なのだから、彼にできることが自分にできないはずはないということ。 努力を怠らなければ、他人にできることは何でもできるということ。
汗顔の至り(かんがんのいたり)
顔から汗がでるほど、大変恥ずかしくおもうこと。 「汗顔」は顔から汗がでるほどに恥じること。 「至り」はこの上ない状態。
癇癪持ちの事破り(かんしゃくもちのことやぶり)
気短な人間は少しのことでも怒り出して、決まりかけた話や計画を台無しにしてしまうことがあるということ。
韓信の股くぐり(かんしんのまたくぐり)
大望を持つ者は、どんな屈辱にも耐え忍ばなければならないということ。中国漢の韓信という名将が大志を抱いていた若い頃、町でならず者に喧嘩を売られ、耐えてその股をくぐったという故事から。