「う」を含む故事・ことわざ・慣用句
「う」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 2443 件
先手を打つ(せんてをうつ)
これから先に起こるであろうことを予測して対策をしておくこと。 または、相手より先に攻撃を加えること。 また、囲碁や将棋で先に打つこと。
先頭を切る(せんとうをきる)
誰よりも先に始めること。
船頭多くして、船、山へ登る(せんどうおおくして、ふね、やまへのぼる)
指図する人間が多すぎて統一が取れず、物事が順調に運ばなかったり、とんでもない方向へ進んでしまったりすることのたとえ。 「船頭」は船長のこと。 まるで船頭かのように指示を出す人間が多すぎると、船が山に登ってしまうような見当違いの方向に物事が進んでしまうとの意から。
船頭のそら急ぎ(せんどうのそらいそぎ)
本当は急いでいないのに、急いでいるふりをすることのたとえ。船頭が「船が出るぞ」と言って客を船に乗り込ませながら、なかなか船を出さないことから。
千日の旱魃に一日の洪水(せんにちのかんばつにいちにちのこうずい)
千日も続く日照りと、たった一日ですべてを流してしまう洪水とは、同じくらいの被害をもたらすということ。水害の恐ろしさをいった言葉。
先入、主となる(せんにゅう、しゅとなる)
前から持っている固定的な観念が、新しい考えの妨げになってしまうこと。 前もって抱いている考えが主となり、後からの考えが従となるとの意から。 この語から「先入観」や「先入主」という語ができた。
仙人の千年、蜉蝣の一時(せんにんのせんねん、かげろうのいっとき)
長い短いの違いはあっても、どちらも一生であることに変わりないことのたとえ。また、同じ一生でも長短の差が大きいことのたとえ。
千里の馬は常にあれども伯楽は常にはあらず(せんりのうまはつねにあれどもはくらくはつねにはあらず)
有能な人材はいつの世にもいるが、その能力を見出して育てる優れた指導者は少ないということのたとえ。 「千里の馬」は、一日に千里も走れるほどの優れた馬。転じて、優れた才能の人物。 「伯楽」は牛馬の良し悪しを見分ける名人のこと。転じて、人物を見抜いて、その才能を引き出し育てる優れた指導者のこと。 いつの時代にも、一日に千里を走るほどの優れた馬はいるが、その名馬の能力を引き出す伯楽は、いつもいるわけではないということから。
千里の馬も蹴躓く(せんりのうまもけつまずく)
優れた才能の人物も時には失敗することもあるというたとえ。「千里の馬」は、一日に千里も走れるほどの優れた馬。転じて、優れた才能の人物。
千里の馬も伯楽に会わず(せんりのうまもはくらくにあわず)
有能な人も、その真価を見抜いて能力を引き出してくれる人とはなかなか出会えないということ。「千里の馬」は、一日に千里も走れるほどの名馬。転じて、優れた才能の人物。「伯楽」は牛馬の良し悪しを見分ける名人のこと。転じて、人物を見抜いて、その才能を引き出し育てる優れた指導者のこと。
千里の行も足下より始まる(せんりのこうもそっかよりはじまる)
大きな目標・目的を達成するためには、身近なことからこつこつと努力を積み重ねていくことが大切であるということ。 千里の道のりも踏み出した一歩から始まるとの意から。 「千里の行も足下より始まる」ともいう。
洗礼を受ける(せんれいをうける)
今までにない経験をすること。 または、試練を与えられること。 元は、キリスト教の信者になる儀式をいう言葉。
絶景というは樽肴ありてこそ(ぜっけいというはたるさかなありてこそ)
すばらしい景色は、酒や肴があってこそ楽しく、酒抜きで景色を見てもつまらないということ。
銭ある時は鬼をも使う(ぜにあるときはおにをもつかう)
金さえあれば、どんな人でも自分の思うままに使うことができるということ。 金があれば、怖い鬼であろうとも思い通りにすることができるとの意から。
善悪の報いは影の形に随うが如し(ぜんあくのむくいはかげのかたちにしたがうがごとし)
影が形に付き随うように、善悪の行為に対する報いは必ずあるということ。
前車の覆るは後車の戒め(ぜんしゃのくつがえるはこうしゃのいましめ)
先人の失敗は後人の戒めになるというたとえ。 前の車が覆るのを見て、後の車は戒めにするとの意から。 単に「後車の戒め」ともいう。
善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや(ぜんにんなおもておうじょうをとぐ、いわんやあくにんをや)
仏の救いを頼みとしない善人でさえ極楽往生を遂げる。まして、仏の救いにすがるしかない悪人が往生できないわけがないということ。
善の裏は悪(ぜんのうらはあく)
いいことのあとには悪いことが起きるということ。善と悪とは表と裏で、いいことばかりも続かないし悪いことばかりも続かないということ。
膳部揃うて箸を取れ(ぜんぶそろうてはしをとれ)
食事をする時は、料理がすべて揃ってから箸を取るものだということ。あわただしく食事に取りかかることを戒める言葉。また、物事は用意がすっかり整ってから始めよということ。「膳部」は、膳にのせて出す料理のことで、「全部」とかけたもの。
前門の虎、後門の狼(ぜんもんのとら、こうもんのおおかみ)
一つの災いを逃れても、さらにまた別の災難に見舞われることのたとえ。 前門で虎の侵入を防いだと思ったら、すでに後門に狼が入っていたとの意から。 「前門に虎を防ぎ後門に狼を進む」ともいう。
善を責むるは朋友の道なり(ぜんをせむるはほうゆうのみちなり)
善い行いをするように勧めるのが、友としての大切な務めだということ。「責むる」は、当然なすべき事を勧めるという意。
創痍未だ癒えず(そういいまだいえず)
戦いが終わってからまだ日が浅く、戦いで受けた傷がまだ癒えない様子。 「創痍」は刀で受けた傷。
滄海の一粟(そうかいのいちぞく)
広大なものの中のきわめて小さいもののたとえ。 また、宇宙における人間の存在のはかなさのたとえ。 「滄海」は青い大海、「一粟」は一粒の粟のこと。 大海に浮かぶ一粒の粟という意味。
滄海変じて桑田となる(そうかいへんじてそうでんとなる)
世の中の移り変わりが激しいことのたとえ。 「滄海」は大海のこと。 「桑田」は桑畑のこと。 桑畑だった所が大海になるような変化が起こるとの意から。 「桑田変じて滄海となる」「滄桑の変」ともいう。
喪家の狗(そうかのいぬ)
元気がなくてやつれている人のたとえ。 または、身を寄せるところがなく、放浪している人のたとえ。 「喪家」は喪中の家のこと。 「狗」は動物の犬のこと。 葬式をしている家は忙しいので、犬に餌をやり忘れてしまい犬がやせてしまうという意味から。 また、一説に家を失った犬や宿無しの犬のことをいうこともある。
創業は易く守成は難し(そうぎょうはやすくしゅせいはかたし)
事業を新しく起こすよりも、成果を守り続けていくほうが難しいということ。 「創業」は事業を新しく興すこと。 「守成」は成果を守るいう意味から。 唐の太宗が「創業と守成のどちらが難しいか」と尋ねたときに、魏徴が「守成」と答えたという故事から。
総毛立つ(そうけだつ)
寒さや恐怖によって全身の毛が逆立つこと。
双肩に担う(そうけんにになう)
責任をもって重要な任務を受け持つこと。 「双肩」は左右の肩のことで、左右の肩で担ぐという意味から。
操觚(そうこ)
文筆に携わること。「觚」は古代中国で文字を記した木の札のことで、それを手に取り文字を書く意から。
糟糠の妻(そうこうのつま)
貧しく苦しい時から苦労をともにし、長年連れ添った妻。「糟糠」は糟(さけかす)と糠(ぬか)のことで、転じて粗末な食べ物。
糟糠の妻は堂より下さず(そうこうのつまはどうよりくださず)
貧しく苦しい時から苦労をともにし長年連れ添った妻は、たとえ自分が出世しても家から追い出すわけにはいかないということ。
相好を崩す(そうごうをくずす)
嬉しそうな笑顔になること。にこやかな表情になること。 「相好」は顔つきという意味。
曽参、人を殺す(そうしん、ひとをころす)
嘘も繰り返して言われると、それを信じてしまうというたとえ。 「曽参」は親孝行で名高い孔子の弟子。 ある時、「曽参が人を殺した」との誤報を曽参の母に告げたが信じなかった。しかし、三人から同じ事を告げられた時、ついに曽参の母は織りかけの機をほうり投げ走り出したという故事から。
宋襄の仁(そうじょうのじん)
無用の情けをかけて、ひどい目に遭うことのたとえ。中国の春秋時代、臣下が先制攻撃を仕掛けるように進言したが襄公は「人の弱みにつけ込み攻めるのはすべきことではない」と敵の陣容が整うまで攻撃せず、それが原因で大敗したという故事から。
騒人(そうじん)
詩や文章を作るひと。風流なひと。
総好かんを食う(そうすかんをくう)
関わりのある全ての人から嫌われること。
想像を絶する(そうぞうをぜっする)
想像することができる程度を大きく上回っていること。
相談に乗る(そうだんにのる)
相手からの相談に応じること。
総嘗めにする(そうなめにする)
複数回行う勝負などで全て勝つこと。 または、賞などを全て獲得すること。 また、災害などで、ある範囲全てに被害が及ぶこと。
糟粕を嘗める(そうはくをなめる)
先人の真似だけで、工夫や進歩などが一つもないことのたとえ。 「糟粕」は酒粕のことで、よい部分の残り物のたとえ。
そうは問屋が卸さない(そうはとんやがおろさない)
そう簡単に相手の望みに応じられないということ。また、物事は都合よく自分の思い通りには運ばないというたとえ。そんな安値では問屋が卸してくれないということから。
相場が決まっている(そうばがきまっている)
一般的にそうであると認識されていること。
草莽の臣(そうもうのしん)
官職に就かず民間にとどまっている人のこと。また、在野の人のこと。「草莽」は、草が茂っている所から転じて、民間・在野の意。
総領の十五は貧乏の世盛り(そうりょうのじゅうごはびんぼうのよざかり)
長男が一人前になる一歩手前の十五歳の頃が、家計がもっとも苦しい時期だというたとえ。
総領の甚六(そうりょうのじんろく)
長男は甘やかされて大事に育てられるので、おっとりとした世間知らずの者が多いということ。「甚六」は愚か者のこと。
倉廩実ちて礼節を知る(そうりんみちてれいせつをしる)
経済的に安定して初めて礼儀や節度を重んじるゆとりが生まれるというたとえ。「倉廩」は、穀物類を蓄える倉の意。米ぐらが一杯になって初めて礼節をわきまえる心が生まれるということから。
葬礼帰りの医者話(そうれいがえりのいしゃばなし)
言ってもどうにもならない愚痴を言うたとえ。また、手遅れで間に合わないことのたとえ。葬式からの帰り道に、医者のよしあしなどを話すということから。
葬礼九つ酒七つ(そうれいここのつさけななつ)
葬儀は昼の十二時頃、酒宴は午後四時頃に行うのが習わしだということ。
惻隠の情(そくいんのじょう)
かわいそうに思う気持ち。同情する気持ち。「惻隠」は、相手を哀れむこと。
束脩(そくしゅう)
入門の時、師に贈る謝礼のこと。「脩」は干し肉の意。昔中国で、師に入門するときに束ねた干し肉を持参したことから。
俎上に載せる(そじょうにのせる)
ある物事や人物を取り上げて、論じたり批評したりすること。 「俎上」は、まな板の上。 料理するために魚をまな板の上に載せるとの意から。
俎上の魚(そじょうのうお)
他人の意志に完全に委ねられた、選択の余地がない状況に置かれていることのたとえ。 「俎上」は、まな板の上。 まな板の上にのせられた魚との意から。 「俎上の鯉」「俎板の魚」「俎板の鯉」などともいう。
俎上の魚江海に移る(そじょうのうおこうかいにうつる)
危機的な状況から脱して安全な場所に移ること。 まな板の上の魚が川や海に逃げるという意味から。 「俎」はまな板のこと。 「江海」は川や海のこと。
粗相が御意に叶う(そそうがぎょいにかなう)
目上の者には、そそっかしい性格の目下の者がほほえましく見え、そうした者がかえって気に入られるということ。
粗相も時の一興(そそうもときのいっきょう)
失敗も、時によってはその場を和ませるような笑いを誘う一つの面白みであるということ。
袖の下に回る子は打たれぬ(そでのしたにまわるこはうたれぬ)
叱られて逃げるような子は追いかけてでも打ちたくなるが、叱られてもすがりついてくる子は、かわいくて打てないということ。
袖振り合うも他生の縁(そでふりあうもたしょうのえん)
見知らぬ人と袖が触れ合うようなちょっとしたことも、偶然ではなく前世からの因縁によるものなので、どんな出会いも大切にしなければならないということ。 「他生の縁」は前世からの因縁のこと。 「他生」は「多生」とも書く。 「袖振り合う」は「袖すり合う」「袖触れ合う」ともいう。
外愛嬌の内そんぶり(そとあいきょうのうちそんぶり)
外では愛嬌を振りまいているが、家では無愛想な人のこと。「そんぶり」は、無愛想の意。
外堀を埋める(そとぼりをうめる)
ある目的を達成するために、周りの問題から解決していくことのたとえ。 敵の城を落とすためには、まず外側にある堀を埋めるとの意から。
外孫飼うより犬の子飼え(そとまごかうよりいぬのこかえ)
他家へ嫁いだ娘が生んだ子は、いくらかわいがっても、将来の頼りにはならない。そんな孫をかわいがるより、犬の子をかわいがるほうがましだということ。
備えあれば憂いなし(そなえあればうれいなし)
普段から非常時の準備をしておけば、緊急の事態が起こっても心配する必要がないということ。
その国に入ればその俗に従う(そのくににいればそのぞくにしたがう)
その土地に行ったら、その土地の習慣やしきたりに従うべきであるということ。
傍杖を食う(そばづえをくう)
自分と関係のないことで、思いがけない災難を受けること。 喧嘩している近くにいたために、打ち合っている杖で打たれることから。 「側杖を食う」とも書く。
素封(そほう)
大金持ちのこと。 「素」はむなしいこと、なにもないこと。 「封」は領土のこと。 位や領土はもたないが、多くの財産を持っていること。 「素封家」ともいう。
空に三つ廊下(そらにみつろうか)
天気が安定しないことを洒落て言う言葉。 「降ろうか」、「照ろうか」、「曇ろうか」の三つの「ろうか」を「廊下」に掛けた言葉。
空を使う(そらをつかう)
知らない振りをすること。とぼけること。または、平気で嘘を言うこと。
算盤が合う(そろばんがあう)
計算の結果が正しいこと。計算が合うこと。 または、収支を計算して収入のほうが多いこと。採算がとれること。
添わぬうちが花(そわぬうちがはな)
結婚して一緒に生活するようになると、お互いの欠点が目立つようになるので、結婚前が一番楽しい時期だということ。
損せぬ人に儲けなし(そんせぬひとにもうけなし)
ある程度の損をする覚悟がなければ大儲けはできないということ。
存養(そんよう)
人が生まれた時から持っている善の心を失わないようにしながら育てること。
造詣が深い(ぞうけいがふかい)
学問や芸術などの深い知識や技能を持ち、すぐれた理解力があること。
象牙の塔(ぞうげのとう)
学者の現実離れした生活態度や、その研究室などをたとえていう言葉。フランスの批評家サント・ブーブが、詩人・作家ビニーの態度を評した言葉。もとは芸術至上主義の人々が俗世間から逃れ芸術を楽しむ境地のことを言った。
草履履き際で仕損じる(ぞうりはきぎわでしそんじる)
最後の最後で失敗をして、それまでの努力を駄目にしてしまうこと。 仕事を終わらせて、帰ろうと草履をはこうとした時に失敗するとの意から。
俗に言う(ぞくにいう)
世間で言う。一般に言う。 正式ではないが一般的に言われているとの意味を表す言葉。
大恩は報せず(たいおんはほうせず)
小さな恩義はすぐに気づいて報いることができるが、大きな恩義はその大きさゆえに気づきにくく、感謝や報恩ができないということ。
大廈の倒れんとするは一木の支うる所に非ず(たいかのたおれんとするはいちぼくのささうるところにあらず)
大きな勢力の危機は、一人の力だけではどうすることもできないということ。 「大廈」は、大きな建物のこと。 大きな建物が倒れかけているのを、一本の木だけで支えることはできないとの意から。 「倒れんとする」は「顚れんとする」とも書く。 「一木大廈の崩るるを支うる能わず」「一木いずくんぞ能く大廈を支えん」ともいう。
大旱の雲霓を望む(たいかんのうんげいをのぞむ)
物事の到来を待ち望むことのたとえ。 「大旱」はひどい日照り、「雲霓」は雲と虹のこと。 ひどい日照りの時に、雨の前触れである雲や虹を待ち望むとの意から。
大姦は忠に似たり(たいかんはちゅうににたり)
大悪人は本性を隠して主君に仕えるので、あたかも忠臣のようにみえるということ。「大姦」は大悪人の意。
大魚は小池に棲まず(たいぎょはしょうちにすまず)
大人物はつまらない仕事や地位には満足しないというたとえ。 大きな魚は小さな池には棲んでいないという意味から。
大行は細謹を顧みず(たいこうはさいきんをかえりみず)
大事業を成し遂げようとする者は、小さな事柄など気にかけないということ。「細謹」は細かいことに気を配る意。