「ゅ」を含む故事・ことわざ・慣用句
「ゅ」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 329 件
阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)
互いの絶妙な気持ちや調子のこと。また、それがぴったり合うこと。「阿」は吐く息、「吽」は吸う息のことで呼吸の調子が合う意から。
敢えて主とならず客となる(あえてしゅとならずきゃくとなる)
自分が中心にならずに受身でいるほうが無難だということ。
青柿が熟柿弔う(あおがきがじゅくしとむらう)
人間はいつか必ず死ぬのだから、弔う者も弔われる者も大差ないというたとえ。まだ青い柿が、熟して地面に落ちた柿を弔うが、青柿もやがては熟柿になることから。
悪妻は六十年の不作(あくさいはろくじゅうねんのふさく)
悪い妻は夫を一生不幸にするということ。 「悪妻は百年の不作」ともいう。
悪獣もなおその類を思う(あくじゅうもなおそのるいをおもう)
猛獣でさえ仲間を思いやる気持ちを持っている。まして人間ならなおさらその気持ちがあるはず、という意。「悪獣」は猛獣のこと。
朝のぴっかり姑の笑い(あさのぴっかりしゅうとめのわらい)
当てにならないことのたとえ。 朝さんさんと日がさすよい天気と姑の笑顔は、変わりやすく当てにはできないという意味から。
明日の百より今日の五十(あすのひゃくよりきょうのごじゅう)
不確かな期待よりも、たとえ量が少なくても、今日確実に手にできるもののほうがよいということ。
新しき葡萄酒は新しき革袋に入れよ(あたらしきぶどうしゅはあたらしきかわぶくろにいれよ)
新しい内容を表現するためには、新しい形式が必要であるということ。
当て事と越中褌は向こうから外れる(あてごととえっちゅうふんどしはむこうからはずれる)
当てにしていた事は相手の都合で外れることが多いことのたとえ。 「当て事」は当てにしている事。 「向こう」は身体の前、また、相手のこと。 越中褌が身体の前から外れやすいのと同じように、当てにしていた事は向こうから外れることが多いということ。 「当て事は向こうから外れる」「当て事と畚褌は先から外れる」ともいう。
網、呑舟の魚を漏らす(あみ、どんしゅうのうおをもらす)
法の規制が及ばず、大悪人を取り逃がしてしまうことのたとえ。 網の目が粗いために、舟を呑み込むほどの大魚を逃がしてしまうことから。
家給し人足る(いえきゅうしひとたる)
全ての家庭と人々が豊かで満足のいく生活を送り、盗みや争いがなく、社会が平和で安定している様子。
石に灸(いしにきゅう)
いくらやっても効き目のないこと、無駄なことのたとえ。
医者寒からず儒者寒し(いしゃさむからずじゅしゃさむし)
医者はおおむね裕福で、学者はたいてい貧乏だということ。「儒者」は学者、「寒し」は貧しい意。
一から十まで(いちからじゅうまで)
最初から最後まで。何から何まで。すべて。
一日千秋の思い(いちじつせんしゅうのおもい)
待ち焦がれて、一日が千年もの長さに感じられること。
一樹の陰一河の流れも他生の縁(いちじゅのかげいちがのながれもたしょうのえん)
この世で起こるすべての出来事は、すべて前世からの因縁によるものなので大切にしなければならないということ。 同じ木の陰で雨宿りをしたり、同じ流れの水を飲んだりするといった、偶然のちょっとした出来事も、すべて前世からの縁によるものであるとの意から。 「一河の流れを汲むも他生の縁」ともいう。
一場の春夢(いちじょうのしゅんむ)
人生の栄光や繁栄は、きわめて儚いということ。 「一場」は、ほんの短い間。 春の夜にみる夢のように、すぐに消えてしまうということから。
一日一字を学べば三百六十字(いちにちいちじをまなべばさんびゃくろくじゅうじ)
毎日少しずつでも怠らずに勉強を続ければ、積もり積もって大きな成果が得られるというたとえ。
意中の人(いちゅうのひと)
心の中でひそかに思い、慕っている人。
一を聞いて十を知る(いちをきいてじゅうをしる)
わずかなことを聞いただけで全体を知得すること。頭の回転が速く理解力があるたとえ。
一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)
わずかな労力のこと。また、細かい一つ一つの動作や行動のこと。 一度手を挙げ、一度足を動かすとの意から。
一見、旧の如し(いっけん、きゅうのごとし)
一度会っただけで、古くからの友達のように親しくなること。「一見」は一度会う、「旧」は以前からの知り合いの意。
一旦緩急あれば(いったんかんきゅうあれば)
ひとたび大事が起きた時には、という意味。「一旦」はひとたび、「緩急」は差し迫った場合という意。
一籌を輸する(いっちゅうをゆする)
わずかに負ける。ちょっと劣る。 「籌」は、勝負の点数を数える竹の棒。 「輸する」は、負けるの意。 勝負で相手に籌一本分負けるということから。
医は仁術(いはじんじゅつ)
医術は病気を治すことによって、相手に仁徳を施す術でもあるということ。
いやいや三杯十三杯(いやいやさんばいじゅうさんばい)
口先だけの遠慮のこと。 口では遠慮して、実際に勧められれば何杯でも飲むことから。 「いやいや三杯十三杯」ともいう。
印綬を解く(いんじゅをとく)
官職を辞めること。 「印綬」は昔、中国で天子から官吏を任命された時、その印として与えられた官印とそれを身につけるための紐のことで、その印綬を身体からはずすことから。 反対に官職に就くことを「印綬を帯びる」という。
魚の釜中に遊ぶが如し(うおのふちゅうにあそぶがごとし)
危険が迫っていることも知らずにのんきにしていることのたとえ。また、死が迫っていることのたとえ。 やがて煮られることも知らずに魚が釜の中をのんびり泳いでいることから。 「釜中の魚」ともいう。
うかうか三十きょろきょろ四十(うかうかさんじゅうきょろきょろしじゅう)
歳月の過ぎるのが早く、人生が無為に過ぎることのたとえ。 うかうか過ごしているうちに三十代になり、きょろきょろしている間に四十代になってしまうとの意から。
烏合の衆(うごうのしゅう)
烏(からす)の集まりのように、規律も統一もなく集まった群衆のこと。
縁なき衆生は度し難し(えんなきしゅじょうはどしがたし)
人の忠告を聞き入れようとしない者は、救いようがないということ。 「縁」は、ここでは仏縁の意。 「衆生」は、仏が慈悲を垂れる人間。 「度す」は、悟りを開かせること。 仏縁のない者は、たとえ仏でも救いようがないとの意から。
王侯将相寧んぞ種あらんや(おうこうしょうしょういずくんぞしゅあらんや)
王や諸侯、将軍、大臣になるには家柄や血統など関係なく、必要なのはその人の才能や努力だということ。「種」は家柄、血統の意。
男は二十五の暁まで育つ(おとこはにじゅうごのあかつきまでそだつ)
男は二十五歳くらいまでは成長するということ。
鬼も十八、番茶も出花(おにもじゅうはち、ばんちゃもでばな)
器量が悪くても、年ごろになれば誰でも娘らしい魅力が出てくるということ。 鬼の娘でも十八という年ごろになれば娘らしくなるし、安い番茶も入れたては香りがよくおいしいとの意から。 単に「鬼も十八」また「番茶も出花」ともいう。
己を虚しゅうす(おのれをむなしゅうす)
自分の我をすてて、謙虚で素直な気持ちになること。
お前百までわしゃ九十九まで(おまえひゃくまでわしゃくじゅうくまで)
夫婦がともに元気で仲睦まじく長生きしたいと願う言葉。「お前」は夫、「わしゃ」は妻のことで、この後に「共に白髪の生えるまで」と続く。
親方思いの主倒し(おやかたおもいのしゅたおし)
主人のためを思ってしたことが、逆に主人に不利益をもたらすこと。
親子は一世、夫婦は二世、主従は三世(おやこはいっせ、ふうふはにせ、しゅじゅうはさんせ)
親子の関係は現世だけのものであり、夫婦は前世と現世または現世と来世の二世に渡る。主従関係は、前世・現世・来世の三世にまたがるほど深いということ。
親の十七、子は知らぬ(おやのじゅうしち、こはしらぬ)
親は自分が未熟だった若い頃の失敗談などをしないから、子どもにはわからない。完全なふりをして子どもに意見する親を皮肉っていう言葉。
女賢しゅうして牛売り損なう(おんなさかしゅうしてうしうりそこなう)
女は利口そうに見えても、目先の利にとらわれて大局を見通せずに失敗するというたとえ。 女がでしゃばりすぎて売り物の牛について余計なことを言い、売り損なってしまったという話から。
海中より盃中に溺死する者多し(かいちゅうよりはいちゅうにできしするものおおし)
海で溺れて死ぬ人より酒の飲みすぎで死ぬ人の方が多いということ。
河海は細流を択ばず(かかいはさいりゅうをえらばず)
度量の広い大人物は、どんな人でも受け入れるというたとえ。「河」は黄河のこと。黄河や大きな川はどんな小さな流れでも差別なく受け入れるという意味から。
蝸牛、角上の争い(かぎゅう、かくじょうのあらそい)
狭い世界でのつまらない争いのこと。 「蝸牛」はかたつむり、「角上」はつのの上のこと。 かたつむりの左の角の上にある触という国と右の角の上にある蛮という国が、領土を争ったという寓話から。 「蝸角の争い」ともいう。
渦中に巻き込まれる(かちゅうにまきこまれる)
いつの間にか事件や争いなどのごたごたに引き込まれてしまうこと。 「渦中に巻き込まれる」ともいう。
火中の栗を拾う(かちゅうのくりをひろう)
自分の利益にはならないにもかかわらず、危険をおかすことのたとえ。猿におだてられた猫が、いろりの中で焼けている栗を拾おうとして大やけどをしたというラ・フォンテーヌ(詩人)の寓話から。
金釘流(かなくぎりゅう)
文字を書くことが下手なことを「金釘を連ねたようだ」と、書の流派の一つに見立てて馬鹿にした言葉。
金は良き召し使いなれど悪しき主なり(かねはよきめしつかいなれどあしきしゅなり)
金は自分の意思で運用しているうちはよいが、金に使われるようになると害をもたらすという戒め。
髪結いの亭主(かみゆいのていしゅ)
妻の稼ぎで養われている男のたとえ。 髪結いの女房をもつと、その稼ぎで、働かずに遊んで暮らせる意から。
狩人、罠にかかる(かりゅうど、わなにかかる)
人をおとし入れようとして仕組んだ悪だくみで、自分がひどいめにあうことのたとえ。獲物を獲ろうとして仕掛けた罠に猟師自身がかかるということから。
勧学院の雀は蒙求を囀る(かんがくいんのすずめはもうぎゅうをさえずる)
ふだん見慣れたり聞き慣れたりしていることは、習わなくても自然に身に付くというたとえ。 「勧学院」は、平安時代に藤原氏の子弟を教育した学校。 「蒙求」は、中国唐の時代に書かれた歴史教訓書。 勧学院の雀は、学生が蒙求を読むのを聞き覚えて、それをさえずるようになったということから。
堪忍五両、思案十両(かんにんごりょう、しあんじゅうりょう)
世の中を生きていくためには、腹の立つことをじっと我慢し、よく考えて慎重に行動することが大切だということ。 忍耐には五両、熟慮には十両の価値があるとの意から。
眼中に無い(がんちゅうにない)
まったく気にしない。関心がない。 「眼中」は目に見える範囲のこと。転じて、意識や関心の届く範囲。
眼中人なし(がんちゅうひとなし)
他人のことは考えず、思うままに振る舞うこと。人を人とも思わないこと。
危急存亡の秋(ききゅうそんぼうのとき)
生き残るか滅びるかの大きな岐路に立たされている時。「秋」は重大な時期の意。
木七竹八塀十郎(きしちたけはちへいじゅうろう)
木を切るには七月、竹を切るには八月、土塀を塗るのは十月が適しているということ。月はいずれも陰暦で、人名のように語呂をあわせて覚えやすくしたもの。
昨日は嫁、今日は姑(きのうはよめ、きょうはしゅうとめ)
時の流れが非常に早く、人の境遇も変わりやすいということのたとえ。
久闊を叙する(きゅうかつをじょする)
無沙汰をわびる挨拶をすること。「久闊」は、久しく会わないことや便りをしないこと。「叙する」は、述べるという意。
九牛の一毛(きゅうぎゅうのいちもう)
多数の中のわずかな一部分のこと。取るに足りないことのたとえ。 「九牛」は、多くの牛のこと。 多くの牛の中の一本の毛のことから。
九死に一生を得る(きゅうしにいっしょうをえる)
ほとんど助かる見込みがないと思われる危険な状態に陥りながら、かろうじて助かること。 「十のうち、九が死、一が生」のような助かる見込みがほとんどない状況で生き残るとの意から。 「万死に一生を得る」「万死の中に一生を得」「万死を出でて一生に遇う」「九死一生」などともいう。
急所を衝く(きゅうしょをつく)
物事の核心となる部分を鋭く指摘すること。
急所を握る(きゅうしょをにぎる)
相手の致命的な弱点や嫌がる所を的確に見抜くこと。
九仞の功を一簣に虧く(きゅうじんのこうをいっきにかく)
長い間の努力も最後のわずかなところでやめてしまえば無駄になることのたとえ。 「九仞」は非常に高い、「一簣」は一杯のもっこの意。 高い山を築くのに、最後のもっこ一杯の土を虧く(欠く)と完成しないとの意から。
窮すれば通ず(きゅうすればつうず)
行き詰って困りきると、かえって思いがけない道が開けてくるということ。
窮鼠、猫を噛む(きゅうそ、ねこをかむ)
弱い者も追いつめられると、必死になって強い者に反撃することがあるということ。 追いつめられた鼠が猫にかみつくとの意から。
窮鳥懐に入れば猟師も殺さず(きゅうちょうふところにいればりょうしもころさず)
窮地に陥った者が救いを求めてくれば、どんな事情があっても助けるのが人情であるというたとえ。 追いつめられた鳥が自分のふところに飛び込んでくれば、さすがの猟師も殺したりは出来ないということから。
旧套を脱する(きゅうとうをだっする)
古くからのやり方を廃止して、新しい方式や方向を目指すこと。 「旧套」は、古くからの形式や慣習のことで、それから脱却するとの意から。
朽木は雕る可からず(きゅうぼくはえるべからず)
やる気のない怠け者は教育のしようがないことのたとえ。 「雕る」は、彫刻すること。 朽ちた木は彫刻できないとの意から。 このあとに「糞土の牆は塗るべからず」と続く。
窮余の一策(きゅうよのいっさく)
追いつめられて困ったあげく、苦しまぎれに思いついた一つの方法のこと。「窮余」は、行き詰まった末という意。
久離を切る(きゅうりをきる)
親族などの縁を永久に断つこと。勘当すること。江戸時代、不品行の者の親族が連帯責任を逃れるために、奉行所に願い出てその者と縁を切ったことから。「久離」は「旧離」とも書く。
笈を負う(きゅうをおう)
故郷を離れて勉学すること。 「笈」は、本を入れて背負う箱。 笈を背負って遠くに勉学に行くとの意から。
灸を据える(きゅうをすえる)
懲らしめるために、強く叱ったり罰を与えたりすること。
胸中、成竹あり(きょうちゅう、せいちくあり)
事をするにあたって、あらかじめ十分な見通しが立っていることのたとえ。 「成竹」は、事前に心の中で考えている計画のこと。 竹の絵を描くときには、胸の中に竹の形を思い浮かべてから描きはじめるとの意から。
錐の嚢中に処るが如し(きりののうちゅうにおるがごとし)
すぐれた人は、多くの人の中にいても自然とその才能が現れるというたとえ。袋の中にの錐は、その鋭い先端が外に飛び出ることから。
牛耳を執る(ぎゅうじをとる)
集団の中心となって思うままに主導権を握ること。中国の春秋戦国時代、諸侯が同盟を結ぶ時、中心となる人物が牛の耳を裂いて出した血をすすって結束を誓い合ったという故事から。「牛耳る」という言葉もここから出たもの。
国乱れて忠臣見る(くにみだれてちゅうしんあらわる)
泰平の時には誰が忠臣かわからないが、国が乱れて危機に直面すると、真の忠臣が誰かがはっきりするということ。
暗がりの渋面(くらがりのじゅうめん)
何の効果もないこと。暗いところでしかめっ面をしても誰にもわからないことから。
君子は庖厨を遠ざく(くんしはほうちゅうをとおざく)
君子は憐れみ深いので、動物が捌かれる姿が見えてたり動物の悲鳴が聞こえたりする厨房に近づくことは忍び難いということ。
葷酒、山門に入るを許さず(くんしゅ、さんもんにいるをゆるさず)
葷酒は修行の妨げになるので、寺の中に持ち込むのを許さないということ。「葷酒」は、強い臭気のねぎやにらなどの野菜と酒。禅寺の山門の脇に立つ石碑に刻まれた言葉。
傾蓋、旧の如し(けいがい、きゅうのごとし)
会ったばかりで旧友でもあるかのように親しく打ち解けることのたとえ。 「傾蓋」は孔子(こうし)と程子(ていし)がたまたま道で出会って車の蓋(かさ)を傾けて語りあったという故事から。
鶏口となるも牛後となるなかれ(けいこうとなるもぎゅうごとなるなかれ)
たとえ小さな集団でもその頭になるほうが、大きな集団で人の尻についているよりもよいというたとえ。 「鶏口」は、鶏の口のことで小さな集団の長のたとえ。 「牛後」は、牛の尻のことで強大な者につき従って使われる者のたとえ。 略して「[[鶏口牛後(けいこうぎゅうご)*https://yoji.jitenon.jp/yoji/351.html]]」ともいう。