「子ども」に関連する故事・ことわざ・慣用句一覧
「子ども」に関連する故事・ことわざ・慣用句の一覧です。
あって地獄、なくて極楽(あってじごく、なくてごくらく)
金と子どもは、あれば苦労が絶えないので、むしろないほうが気が楽だということ。
あっても苦労、なくても苦労(あってもくろう、なくてもくろう)
金と子どもは、あればあったで苦労するし、なければないで苦労するということ。
後先息子に中娘(あとさきむすこになかむすめ)
子どもを持つなら三人で、最初と最後は男、真ん中は娘が理想だということ。
家貧しくして孝子顕る(いえまずしくしてこうしあらわる)
貧乏な家庭では、子どもも親を助けるために働いたりするので、その孝行ぶりが目立って人に知られるようになるということ。 逆境のときに、それを助けるものが現れること。
一姫二太郎(いちひめにたろう)
一番最初に女の子が生まれ、次に男の子が生まれるという子供の生まれる順番のこと。その順番が子育てに適しているという意味で用いられる言葉。「うちの子供は女がひとりと男がふたりの一姫二太郎です」と子供の数を表す使い方は誤用。
いとしい子には旅をさせよ(いとしいこにはたびをさせよ)
子どもがかわいいなら、甘やかして育てるより、世の中に出してつらさや苦しさを経験させたほうがいいということ。
今鳴いた烏がもう笑う(いまないたからすがもうわらう)
今まで泣いていた子どもが、すぐに機嫌を直して笑うこと。
倚門の望(いもんのぼう)
母親が子どもの帰りを待ちわびること。また、そういう母親の愛情のこと。中国の春秋時代、王孫賈(おうそんか)の母親が門に倚(よ)りかかって、我が子の帰りを待ちわびたという故事から。
内で掃除せぬ馬は外で毛を振る(うちでそうじせぬうまはそとでけをふる)
家庭のしつけが悪い子どもは、外に出るとすぐにわかるということのたとえ。 飼い主の手入れの悪い馬は、外に出た時に毛を振って汚れを落とそうとするので、すぐにわかるとの意から。
瓜の蔓に茄子は生らぬ(うりのつるになすびはならぬ)
一つの原因からは、それ相応の結果しか生まれないということ。また、平凡な親からは、非凡な子どもは生まれないということのたとえ。
縁の切れ目は子で繋ぐ(えんのきれめはこでつなぐ)
夫婦仲がうまくいかなくなっても、子どもがいれば縁をつなぎとめてくれるということ。
老いては子に従え(おいてはこにしたがえ)
年をとったら出しゃばらずに、何事も子どもに任せて従っていくほうがいいということ。
負うた子を三年探す(おうたこをさんねんさがす)
手近にあることに気づかず、長い間あちこちを探し回るたとえ。 背中に負ぶった子どもをどこへ行ったと三年も探す意から。
多し少なし子三人(おおしすくなしこさんにん)
子どもは三人いると、多からず少なからずで理想的だということ。
思うようなら子と三人(おもうようならことさんにん)
人生が思い通りになるなら、夫婦と子ども一人の三人で暮らすのが一番いいということ。
親思う心にまさる親心(おやおもうこころにまさるおやごころ)
子どもが親を思う気持ちよりも、親の子どもに対する愛情のほうがより深いというたとえ。「親思う心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」という吉田松陰の辞世の歌から。
親が親なら子も子(おやがおやならこもこ)
親と子はよく似るものだということ。親がだめだと子どももだめだというように、悪いところが似た場合に多く使われる。
親ずれより友ずれ(おやずれよりともずれ)
子どもにとっては、親から受ける影響よりも友達から受ける影響のほうが大きいということ。
親に似ぬ子は鬼子(おやににぬこはおにご)
子どもは当然親に似るものであり、親に似ない子はいないということ。 親に似ない子は人間の子ではなく鬼の子であるとの意から。
親の甘茶が毒となる(おやのあまちゃがどくとなる)
親が子どもを甘やかして育てると、その子のためにならず、むしろ毒になるいうこと。
親の意見と茄子の花は千に一つも無駄はない(おやのいけんとなすびのはなはせんにひとつもむだはない)
茄子の花に無駄花がないように、親が子どもにいう意見も一つも無駄がなく、すべて子どもの役に立つことばかりであるということ。
親の因果が子に報う(おやのいんががこにむくう)
親の悪行の結果、罪のない子どもが災いを受けること。
親の心、子知らず(おやのこころ、こしらず)
子どもを思う親の深い愛情を知らず、子どもは勝手気ままなことをするということ。
親の十七、子は知らぬ(おやのじゅうしち、こはしらぬ)
親は自分が未熟だった若い頃の失敗談などをしないから、子どもにはわからない。完全なふりをして子どもに意見する親を皮肉っていう言葉。
親の脛を齧る(おやのすねをかじる)
子どもが独立した生活が出来ずに親に養われて生活すること。
親の光は七光り(おやのひかりはななひかり)
親の地位や名声のおかげで、子どもが恩恵を受け得をすること。
親はなくとも子は育つ(おやはなくともこはそだつ)
親がいなくても、子どもはなんとか成長していく。世の中は、そう心配することもないというたとえ。
負わず借らずに子三人(おわずからずにこさんにん)
人の世話にならず、借金もなく、子どもが三人ぐらいいる家庭が理想的で幸福だということ。
おんぶに抱っこ(おんぶにだっこ)
おんぶすると次は抱っこをしてほしいと甘える子どもように、何もかも他人に頼りきりになること。
蛙の子は蛙(かえるのこはかえる)
子どもは親に似るものであるということ。また、凡人の子はやはり凡人であるというたとえ。
かわいい子には旅をさせよ(かわいいこにはたびをさせよ)
子どもがかわいいなら、甘やかして育てるより、世の中に出してつらさや苦しさを経験させたほうがいいということ。
川の字に寝る(かわのじにねる)
漢字の「川」の字のように寝ること。 特に、夫婦が子どもを真ん中にして寝ること。
嚙んで含める(かんでふくめる)
理解できるように、細かく丁寧にわかりやすく言い聞かせること。 親が、食物を嚙み砕いて食べやすいようにしてから、子どもの口に含ませてやるとの意から。
餓鬼も人数(がきもにんずう)
力の弱い者でも多数集まればあなどりがたい力になるということ。「餓鬼」は子どもを罵って言う言葉から転じて弱い者という意。
黄色い声(きいろいこえ)
女性や子どもの甲高い声のこと。
堯の子堯ならず(ぎょうのこぎょうならず)
親が賢くても子どもは凡庸な場合もあるというたとえ。「堯」は古代中国の伝説上の聖王で、帝位を自分の子どもではなく、よりふさわしい人間へと、摂政の舜に譲った。堯の子であっても堯のように賢明とはかぎらないということ。
子三人、子宝(こさんにん、こだから)
子どもは三人ぐらいが理想的で、子宝というのにふさわしいということ。
子宝、脛が細る(こだから、すねがほそる)
親にとって子どもは宝であるが、育てるためのは脛が細くなるような苦労をするということ。
子供川端、火の用心(こどもかわばた、ひのようじん)
子どもが川に落ちないように注意することと、火の用心をすることが大事だということ。
子供叱るな来た道だもの年寄り笑うな行く道だもの(こどもしかるなきたみちだものとしよりわらうなゆくみちだもの)
子どものいたずらなどは誰しも身に覚えがあるので叱るべきではないし、自分もいずれ年をとるので老人を笑いものにすべきではないということ。
子供好きに子なし(こどもずきにこなし)
子どもが好きな人には、子どもがない場合が多いということ。
子供の喧嘩に親が出る(こどものけんかにおやがでる)
子ども同士の喧嘩に親が口出しして、自分の子どもの味方する愚かさを非難する言葉。また、大人気ないふるまいや余計な干渉をするたとえ。
子供の根問い(こどものねどい)
子どもが何にでも疑問を持って、根掘り葉掘り問いただすこと。
子供は教え殺せ、馬は飼い殺せ(こどもはおしえころせ、うまはかいころせ)
子どもは徹底的に教育し、馬の調教も手加減するなということ。 「馬は飼い殺せ、子供は教え殺せ」ともいう。
子供は風の子、大人は火の子(こどもはかぜのこ、おとなはひのこ)
子どもは寒い風が吹く中でも元気に外で遊びまわり、大人は寒がって火のそばを離れないということ。
子に過ぎたる宝なし(こにすぎたるたからなし)
子どもは最上の宝であるということ。 「子に勝る宝なし」ともいう。
この親にしてこの子あり(このおやにしてこのこあり)
親が立派だからこそ、子どもも優秀であるということ。悪い親だから、子どもも悪くなるという意味で使われることも多い。
子の心、親知らず(このこころ、おやしらず)
親はとかく、子どもの本当の心や考えを察知することは出来ないということ。
子はあるも嘆き、なきも嘆き(こはあるもなげき、なきもなげき)
子どもはあればあるで心配事が多く、なければないで嘆きの種になるということ。
子は産むも心は生まぬ(こはうむもこころはうまぬ)
親は子どもは生んでも、その子の心まで産むわけではないから、心が親に似ていなくても当然だということ。
子は鎹(こはかすがい)
子どもは夫婦の縁をつなぎとめる鎹のような存在で、我が子への愛情から夫婦の仲がなごやかに保たれるということ。「鎹」は、材木をつなぎ止めるためのコの字型の鉄製の釘のこと。
子は三界の首枷(こはさんがいのくびかせ)
親は子どものことにとらわれて、終生自由を束縛されてしまうということ。「三界」は、過去・現在・未来の三世のこと。「首枷」は、罪人の首にはめて自由を束縛する刑具。子どもは三界にわたって親の自由を拘束する首枷のようなものだということ。
子ほど喜ばせにくいものはなく親ほど喜ばせやすいものはない(こほどよろこばせにくいものはなくおやほどよろこばせやすいものはない)
親の愛情を当然と思っている子どもを喜ばせるのは難しいが、親は子どものわずかな孝養でも大喜びするということ。
子ゆえの闇に迷う(こゆえのやみにまよう)
子どもを思うあまり、親が暗闇に迷いこんだように思慮分別がつかなくなるたとえ。
子を知ること父に若くはなし(こをしることちちにしくはなし)
父親は子どもの長所や短所を誰よりもいちばんよく知っているということ。「若くはなし」は、及ぶものはないという意。
子を見ること親に如かず(こをみることおやにしかず)
子どもの長所や短所をいちばんよく知っているのは親であり、親に及ぶものはないということ。
子を持って知る親の恩(こをもってしるおやのおん)
自分が子どもを持ち育ててみて、初めて親のありがたさがわかり恩を感じるということ。
酒と産には懲りた者がない(さけとさんにはこりたものがない)
酒の飲みすぎも出産も辛く苦しいものだが、もうやめたという者もない。酒を飲むこと、子どもを持つことはやはり楽しみがあるということ。
三歳の翁、百歳の童子(さんさいのおきな、ひゃくさいのどうじ)
子どもでも知恵も分別もある者もいれば、老人でも無知で愚かな者もいるということ。 人の賢さは年齢に左右されないということ。 「八歳の翁百歳の童」「十歳の翁百歳の童」「百歳の童、七歳の翁」などともいう。
三人子持ちは笑うて暮らす(さんにんこもちはわろうてくらす)
子どもを持つなら三人くらいがちょうどよく、幸せな暮らしができるということ。
舐犢の愛(しとくのあい)
親が子どもを可愛がりすぎることのたとえ。 「舐犢」は親牛が子牛を舐めることで、舐めるように可愛がることから。
死なぬ子三人、皆孝行(しなぬこさんにん、みなこうこう)
三人の子どもが親より先に死なずに成人してくれたら、これ以上の孝行はないということ。
掌中の珠(しょうちゅうのたま)
もっとも大切にしているもの。特に最愛の子ども。「珠」は尊いものの意で、いつも自分の手の中にある大切なものということから。
千の蔵より子は宝(せんのくらよりこはたから)
たくさんの財産よりも子どもの方が大切だということ。
竹の子の親勝り(たけのこのおやまさり)
(たけのこはすぐに親竹と同じ、または親竹以上の高さになることから)子どもの成長が早く、すぐに親を凌ぐようになることのたとえ。または、子どもが親よりもすぐれていることのたとえ。 「竹の子」は「筍」とも書く。
溜め息をすれば親の寿命が縮む(ためいきをすればおやのじゅみょうがちぢむ)
子どもがため息をつけば、親は寿命が縮むほど心配するから、親にそんな態度を見せてはいけないということ。
足らず余らず子三人(たらずあまらずこさんにん)
子どもは三人いるのが、多過ぎず少な過ぎずでちょうどいいということ。
抱いた子の塵を食うを知らぬ(だいたこのちりをくうをしらぬ)
内輪のことには案外気が回らないというたとえ。 抱いている子どもが、ごみを口に入れても気がつかないことがあるとの意から。
駄駄を捏ねる(だだをこねる)
子どもが、甘えてわがままを通そうとすること。
小さく生んで大きく育てる(ちいさくうんでおおきくそだてる)
子どもは小さい子を楽に生んで大きく育てるのが賢明だということ。事業なども小規模で始めてだんだん大きくしていくのがよいやり方だということ。
竹馬の友(ちくばのとも)
子供のころからの親友や幼馴染のこと。 「竹馬」は一本の竹の棒を馬に見立てたもの。 幼いころから竹馬で駆け回って一緒に遊んだ友達という意味から。
父父たらずと雖も子は子たらざるべからず(ちちちちたらずといえどもこはこたらざるべからず)
父親が父親の役目を果たさなくても、子どもは子どもとしての役目を果たさなければならないということ。
手が離れる(てがはなれる)
子どもが成長して、世話の必要がなくなること。 または、仕事が一区切りついて、関わりがなくなること。
十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人(とおでしんどう、じゅうごでさいし、はたちすぎればただのひと)
子どものころは並外れた秀才と思われていた人も、成長すれば平凡な人間になることが多いということ。
年寄りは二度目の子供(としよりはにどめのこども)
老いるとわがままになったり、甘えたりするようになって子どものようになるということ。 「Old men are twice children.」を訳した言葉。
年寄れば愚に帰る(としよればぐにかえる)
年を取れば、子どものように愚かになってしまうということ。
鳶が鷹を生む(とびがたかをうむ)
平凡な親から優れた子どもが生まれることのたとえ。 「とび」は「とんび」とも読む。 「鳶が孔雀を生む」ともいう。
ない子では泣かれぬ(ないこではなかれぬ)
子育てには苦労があり時には泣かされることもあるが、たとえ苦労させられても子どもはいたほうがよいということ。 「ない子に泣かないが有る子に泣く」「ない子では泣かである子に泣く」などともいう。
泣く子は育つ(なくこはそだつ)
大きな声でよく泣く子どもは元気で、丈夫にたくましく育つということ。
泣く子も黙る(なくこもだまる)
泣きじゃくっている子どもが泣き止んでしまうほど、ひどく恐ろしい存在であることのたとえ。
茄子の花と親の意見は千に一つも無駄はない(なすびのはなとおやのいけんはせんにひとつもむだはない)
茄子の花に無駄花がないように、親が子どもにいう意見もすべて子どもの役に立つことばかりで、一つとして無駄がないということ。
二度教えて一度叱れ(にどおしえていちどしかれ)
子どもをしつける時の心得を示した言葉。子どもの過ちや失敗は頭ごなしに怒らず、繰り返してよく教え諭し、それでも聞かない時にたまに叱るくらいがよいということ。
寝る子は賢い親助け(ねるこはかしこいおやだすけ)
泣かずによく眠る子どもは、手がかからないので親にとってありがたいということ。
這えば立て、立てば歩めの親心(はえばたて、たてばあゆめのおやごころ)
子どものすこやかな成長を楽しみに待つ親の気持ちを言ったことば。
腹を痛める(はらをいためる)
子どもを産むこと。出産の痛みを経験するとの意から。 または、自分の金銭を使うこと。
馬鹿と子供には勝てぬ(ばかとこどもにはかてぬ)
理屈が通じない愚か者と子どもには、とうていかなわないということ。
祖母育ちは三百安い(ばばそだちはさんびゃくやすい)
祖母に育てられた子どもは、甘やかされ大切にされるので、わがままで出来の悪い子になるということ。
人の子の死んだより我が子の転けた(ひとのこのしんだよりわがこのこけた)
他人の子どもが死んだことよりも、自分の子が転んだことのほうが重要だということ。我が子の大事さのたとえ。また、自分の利益が一番大事ということのたとえ。
百歳の童(ひゃくさいのわらんべ)
年を取ってもなお、子どもにも劣る愚かな老人。また、年老いて子ども返りした者。
貧乏柿の核沢山(びんぼうがきのさねだくさん)
貧乏人に子どもが多いことのたとえ。「貧乏柿」は小さい渋柿、「核」は種のことで、渋柿は実が小さいのに種が多い意から。
貧乏人の子沢山(びんぼうにんのこだくさん)
貧乏な人にかぎって子どもが多いということ。
風樹の歎(ふうじゅのたん)
親に孝行したいと思ったときにはすでに親は無く、どうすることもできないという嘆きのことば。 「風樹」とは、風に吹かれて揺れ動く木のこと。 『韓詩外伝』「樹静かならんと欲すれども風止まず。子養わんと欲すれども親待たず。(木は静かに静止していたいのに、風がやまなければどうすることもできない。子どもが孝行したいと思っても親は待ってくれない。)」に基づく。
減らぬものなら金百両、死なぬものなら子は一人(へらぬものならかねひゃくりょう、しなぬものならこはひとり)
必要な物が必要な分だけあれば十分だということ。 もしも使っても減らないのであれば金は百両、死なないのであれば子どもは一人いればよいとの意から。 「死なぬものなら子は一人、減らぬものなら金百両」ともいう。
孫は子より可愛い(まごはこよりかわいい)
孫は子ども以上にかわいいということ。祖父母が孫をかわいがることの甚だしさをいう。
三つ叱って五つほめ、七つ教えて子は育つ(みっつしかっていつつほめ、ななつおしえてこはそだつ)
子どもは少し叱って多くほめ、たくさん教えて育てるのがいいということ。
醜い家鴨の子(みにくいあひるのこ)
みんなから容姿が悪いとか、愚かだとか言われていても、大人になってきれいになったり、偉くなったりする子どものこと。アンデルセンの童話から。
実の生る木は花から知れる(みのなるきははなからしれる)
すぐれた人物は、子どもの頃から凡人とは違うというたとえ。 よく実のなる木は、花が咲くときからわかるとの意から。 「実を結ぶ木は花より知らるる」「生る木は花から違う」ともいう。
身二つになる(みふたつになる)
妊娠している人が出産すること。子どもを産むこと。
孟母三遷の教え(もうぼさんせんのおしえ)
子どもの教育には良い環境を選ぶことが大切だという教え。 孟子は幼い頃墓地の近くに住んでいたが、孟子が葬式の真似をして遊ぶので母は市場の近くに居を移した。すると孟子は売買の真似をはじめたので、今度は学校のそばに転居した。すると礼儀作法を真似るようになったので教育に最適な場所として安住したという故事から。 「三遷の教え」「孟母の三遷」「孟母の三居」「孟母三遷」などともいう。
門前の小僧、習わぬ経を読む(もんぜんのこぞう、ならわぬきょうをよむ)
普段から見聞きしていると、知らないうちに覚えてしまうことのたとえ。 寺の前に住んでいる子どもたちは、習わなくても自然に経を読めるようになるとの意から。
焼け野の雉、夜の鶴(やけののきぎす、よるのつる)
子を思う親の情愛が深いことのたとえ。 「雉」はきじのこと。 雉は野を焼かれたら危険を顧みずに巣にいる子どもを助けに戻り、鶴は霜の降りる寒い夜には自分の羽を広げて子を暖めるとの意から。 単に「焼け野の雉」「夜の鶴」、また「夜鶴子を思う」「子を思う夜の鶴」ともいう。 「焼け野の雉」は、身を隠すところのない雉のことから、危険にさらされることのたとえとしてもいわれる。
藪の外でも若竹育つ(やぶのそとでもわかたけそだつ)
藪の外でも竹が育つように、たとえ保護するものがいなくても、子どもはなんとか成長するものだということ。
世の中は年中三月常月夜、嬶十七俺二十、負わず借らずに子三人(よのなかはねんじゅうさんがつじょうつきよ、かかあじゅうしちおれはたち、おわずからずにこさんにん)
世の中は、いつも三月頃の温暖な気候で、夜は明るい月夜、妻は十七歳自分は二十歳、責任も借金もなく、子どもは三人持つ暮らしが望ましいということ。江戸時代の庶民のささやかな願望をいった言葉。
竜と心得た蛙子(りゅうとこころえたかえるこ)
子どもに対する親の見込み違いのたとえ。 将来は竜になると期待していたわが子も、やはり蛙の子にすぎなかったとの意から。
呂律が回らない(ろれつがまわらない)
酒に酔った人や子どもなどが、舌が滑らかに動かず、言葉がはっきりしないようす。「呂律」は和音階を表す呂律(りょりつ)が転じて、言葉の調子の意。