「ぜ」を含む故事・ことわざ・慣用句
「ぜ」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 145 件
秋風が立つ(あきかぜがたつ)
男女の間の愛情がなくなること。「秋」を「飽き」に掛けた言葉。「秋風が吹く」とも。
秋風と夫婦喧嘩は日が入りゃ止む(あきかぜとふうふげんかはひがいりゃやむ)
秋風が日暮れになると静まるように、夫婦喧嘩も夜になるとおさまるということ。
悪に強きは善にも強し(あくにつよきはぜんにもつよし)
大きな悪事を犯すような悪人ほど、いったん悔い改めれば非常な善人になるということ。
悪人あればこそ善人も顕る(あくにんあればこそぜんにんもあらわる)
悪人がいればこそ善人が目立つということ。
悪の裏は善(あくのうらはぜん)
悪いことのあとにはいいことが起きるということ。善と悪とは表と裏で、悪いことばかりも続かないし、いいことばかりも続かないということ。
上げ膳据え膳(あげぜんすえぜん)
自分では何もしないで、すべて人にしてもらうことのたとえ。「上げ膳」は食事が済んで膳を下げること。「据え膳」は食膳を人の前に整えること。
明日は明日の風が吹く(あしたはあしたのかぜがふく)
先のことをいくら心配してもはじまらないので、なるがままに任せて生きるのがよいということ。 明日は明日で、今日とは違う風が吹くという意味から。
畦から行くも田から行くも同じ(あぜからいくもたからいくもおなじ)
手段や方法が違っても、同じ結果になることのたとえ。 畦道から行っても田から行っても、結局行き着く所は同じということから。 「田から行くも畦から行くも同じ事」「田を行くも畦を行くも同じ」「田歩くも畔歩くも同じ」などともいう。異形の多い語。
あったら口に風邪をひかす(あったらくちにかぜをひかす)
親切な気持ちで言ったことが無駄になるたとえ。「あったら」は「あたら」が転じた言葉で、残念なことにの意。
阿弥陀の光も銭次第(あみだのひかりもぜにしだい)
金の力は絶大だというたとえ。阿弥陀仏の御利益も供える金の多少に影響されるということから。
阿弥陀も銭で光る(あみだもぜにでひかる)
金の力は絶大だというたとえ。阿弥陀仏の御利益も供える金の多少に影響されるということから。
網の目に風たまらず(あみのめにかぜたまらず)
無駄なこと、何の効果もないことのたとえ。網で風を防ごうとしても、風は網の目を通り過ぎていくことから。
網の目に風たまる(あみのめにかぜたまる)
ありえないことのたとえ。 網の目を通り抜けるはずの風が網にたまるとの意から。
雨塊を破らず、風枝を鳴らさず(あめつちくれをやぶらず、かぜえだをならさず)
世の中が大平であることのたとえ。周公が中国を統治していた頃は天下泰平で、雨は静かに降って土のかたまりを壊さず、風は木の枝も動かないように静かに吹いたという故事から。
阿波に吹く風は讃岐にも吹く(あわにふくかぜはさぬきにもふく)
ある土地の風習は、他の土地にも移る。上の人の行いは、下の者も真似るようになるということ。また、どこの土地でも人情は変わらないということ。「阿波」は現在の徳島県、「讃岐」は香川県。
案じてたもるより銭たもれ(あんじてたもるよりぜにたもれ)
心配して下さるより銭を下さいということ。口だけで心配してくれても、実質が伴わなければ役に立たない。心配するより銭をくれ、ということをおもしろい語呂合わせで言った言葉。「たもる」は「賜わる」が転じた言葉。
一に褒められ二に憎まれ三に惚れられ四に風邪ひく(いちにほめられにににくまれさんにほれられしにかぜひく)
くしゃみについてのことわざ。一回なら誰かに褒められているし、二回は憎まれていて、三回は惚れられているが、四回は風邪をひく前兆である。
一斑を見て全豹を卜す(いっぱんをみてぜんぴょうをぼくす)
物事の一部分だけを見て、全体を推し量る愚かさをいう言葉。 「一斑」は、豹(ひょう)の毛皮にあるまだら模様のうちの一つのこと。転じて物事の一部分。 「卜す」は、占うこと。判断すること。 毛皮にある一部のまだら模様を見て、豹であること、またどのような豹であるかを断定すること。
入り船に良い風出船に悪い(いりふねによいかぜでふねにわるい)
一方に良いことはもう一方には悪く、両方に良いことはないというたとえ。 入り船に都合のよい順風は、出船にとっては逆風になるとの意から。 「出船によい風は入り船に悪い」ともいう。
浮世の風(うきよのかぜ)
思うようにならない世間の風潮。
牛に引かれて善光寺参り(うしにひかれてぜんこうじまいり)
人に連れられてある場所へ出かけて行くこと。また、自分の意思ではなく他人の誘いによって、よい方向に導かれることのたとえ。 善光寺の近くに住んでいた不信心な老婆が布をさらしていると、その布を牛が角にひっかけて逃げてしまった。老婆は牛を追いかけて善光寺に着き、その縁によって信仰するようになったという故事から。
馬の耳に風(うまのみみにかぜ)
馬の耳に風が吹きつけても馬は何も感じないことから、人の意見を聞き入れない、または聞き流すことのたとえ。
江戸っ子は宵越しの銭は使わぬ(えどっこはよいごしのぜにはつかわぬ)
江戸っ子はその日に稼いだお金はその日のうちに使ってしまうということ。江戸っ子の気前のよさを自慢して言った言葉。
大きな家には大きな風(おおきないえにはおおきなかぜ)
人にはそれぞれの境遇に合った悩みがあるということ。 金持ちは何の心配もないように見えるが、家が大きければ、それなりに風当たりが強く、金持ちなりの悩みがあるとの意から。
大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然(おおやといえばおやもどうぜん、たなこといえばこもどうぜん)
借家人にとって家主は親と同様の存在であり、家主にとって借家人は我が子同様の存在だということ。「店子」は、借家人の意。昔の大家と店子の関係をいった言葉。
臆病風に吹かれる(おくびょうかぜにふかれる)
臆病な気持ちになること。怖じ気づくこと。
お膳立てが揃う(おぜんだてがそろう)
すっかり準備が整えられる。 食膳がすべて並べられるという意味から。
親子は一世、夫婦は二世、主従は三世(おやこはいっせ、ふうふはにせ、しゅじゅうはさんぜ)
親子の関係は現世だけのものであり、夫婦は前世と現世または現世と来世の二世に渡る。主従関係は、前世・現世・来世の三世にまたがるほど深いということ。
嬶天下にからっ風(かかあでんかにからっかぜ)
上州(群馬県)名物といわれる嬶天下とからっ風の二つを並べて、上州人の気質や風土性を言ったことば。
風当たりが強い(かぜあたりがつよい)
世間や周囲から、激しい非難や反発をうけるさま。
風が吹けば桶屋が儲かる(かぜがふけばおけやがもうかる)
思いもかけないところに影響が出るたとえ。また、あてにならない期待をするたとえ。 大風が吹けば土ぼこりが舞い上がって目に入り、目の不自由な人が増える。目の不自由な人は三味線で生計を立てようとするので、三味線に使う猫の皮がたくさん必要になる。猫が捕らえられて少なくなるとねずみが増える。ねずみは桶をかじるので桶屋が儲かるという話から。 「風」は「大風」、「儲かる」は「喜ぶ」ともいう。
風に櫛り雨に沐う(かぜにくしけずりあめにかみあらう)
風雨にさらされて苦労することのたとえ。 風で髪をとかし、雨で体を洗うことから。 「櫛風沐雨」ともいう。
風に柳(かぜにやなぎ)
柳が風になびくように、巧みに受け流すこと。 「柳に風」ともいう。
風の便り(かぜのたより)
どこからともなく伝わってくる噂のこと。
風の吹き回し(かぜのふきまわし)
そのときの成り行きによって、態度や気分がなどが変わること。 風の吹く方向が、その時々で変化することから。
風の前の塵(かぜのまえのちり)
物事のはかないことのたとえ。また、危険が間近に迫っていることのたとえ。塵は風にひとたまりもなく吹き飛ばされてしまうことから。
風は吹けども山は動せず(かぜはふけどもやまはどうせず)
周囲の騒ぎの中で、少しも動じないで悠然としていることのたとえ。 激しい風が吹き荒れても山はびくともしないとの意から。
風邪は万病のもと(かぜはまんびょうのもと)
風邪はあらゆる病気のもとなので、たかが風邪と油断せず用心が必要であるということ。 「風邪は百病のもと」「風邪は百病の長」ともいう。
風を切る(かぜをきる)
勢いよく進むさま。また、風に逆らって進むさま。
風を食らう(かぜをくらう)
事態を察知して、すばやく逃げるようすをいう。息せききって大口を開けて走り、口いっぱいに空気が入り込む様子をいった言葉。多くは悪事が発覚した時などに使う。
風邪を引く(かぜをひく)
テープや絆創膏などの粘着力が弱まって、役に立たなくなることのたとえ。
肩で風を切る(かたでかぜをきる)
肩をそびやかして、得意げに颯爽と歩くさま。また、得意げに振る舞うさま。
勘定合って銭足らず(かんじょうあってぜにたらず)
理論と実際とが一致しないことのたとえ。計算は合っているのに、現金が足りないということから。
間然するところなし(かんぜんするところなし)
非難すべき欠点がまったくないこと。 「間然」は、非難・批判すること。
樹静かならんと欲すれども風止まず(きしずかならんとほっすれどもかぜやまず)
親孝行をしようと思う時に、親はもうこの世にいなくてままならないというたとえ。樹木が静かに立っていようとしても、風が止まないので静かになれない意から。
株を守りて兎を待つ(くいぜかぶをまもりてうさぎをまつ)
古い習慣や過去の偶然の成功にこだわり、進歩や向上がないことのたとえ。 中国・宋の農民が農作業をしていると、兎が木の切り株にぶつかって死んだ。農民は労せず兎を手に入れることができたその経験以来、農作業をせずに毎日切り株を見張っていたという故事から。 「守株」ともいう。
水母の風向かい(くらげのかぜむかい)
いくらあがいても無駄なことのたとえ。水母が風上に向かっても進めないことから。
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず(くんしはわしてどうぜず、しょうじんはどうじてわせず)
すぐれた人物は、人と仲良くするが自主性を失わずむやみに同調しない。つまらぬ人間は、すぐに同調し自主性を欠いているということ。
健全なる精神は健全なる身体に宿る(けんぜんなるせいしんはけんぜんなるしんたいにやどる)
身体が健康であれば、それに伴って精神も健全であるということ。ローマの詩人ユウェナリスの詩集から出た言葉。本来は「健やかな身体に健やかな精神が宿るように望むべきである」の意。
現世安穏、後生善処(げんぜあんのん、ごしょうぜんしょ)
法華経を信じる人は、この世では安穏に生活でき、あの世ではよい世界に生まれるということ。
浩然の気を養う(こうぜんのきをやしなう)
物事にとらわれない、のびのびとした気持ちをつちかうこと。「浩然の気」は、天地にみなぎっている正しくておおらかな気のこと。
公然の秘密(こうぜんのひみつ)
表向きは秘密とされているが、実際には広く世間に知れ渡っていること。 「公然」は誰もが知っているということ。
子供は風の子、大人は火の子(こどもはかぜのこ、おとなはひのこ)
子どもは寒い風が吹く中でも元気に外で遊びまわり、大人は寒がって火のそばを離れないということ。
山雨来らんとして風楼に満つ(さんうきたらんとしてかぜろうにみつ)
何事か変事が起こる前に、なんとなく不穏な気配がただよう様子。 「楼」は、高殿のこと。 山の雨が降り出す前には、前ぶれの風が高殿へ吹きつけることから。 「山雨来らんと欲して風楼に満つ」ともいう。
三千の寵愛一身にあり(さんぜんのちょうあいいっしんにあり)
皇帝の後宮に仕える多くの女性の中で、ひとりだけが特別に寵愛されていることのたとえ。
座禅組むより肥やし汲め(ざぜんくむよりこやしくめ)
座禅を組んで修行する暇があるなら、肥やしを汲んで農作業に精を出せということ。時間や労力を実業以外のことに使うことを戒める言葉。
色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
この世の形あるすべてのものは、空しい仮の存在であり永遠に存在するものはないということ。同時に、すべてのものの本質は実体のない空なものであるが、それがこの世を形作っているということ。「色」は形あるすべてのもの、「即」はそのままの意。
獅子は兎を撃つに全力を用う(ししはうさぎをうつにぜんりょくをもちう)
実力のあるものは、小さなことにも手を抜かず何事にも全力で向かうということ。
自然に帰れ(しぜんにかえれ)
社会の因襲による悪影響から逃れ、人間本来の自然の状態に帰れということ。フランスの啓蒙思想家・小説家ジャン・ジャック・ルソーの言葉。
主従は三世(しゅじゅうはさんぜ)
主従の間柄は、前世・現世・来世の三世にもわたるほど深いということ。
正直は最善の策(しょうじきはさいぜんのさく)
正直であることが目的を果たすためには最も良い策であるという教え。
小人閑居して不善をなす(しょうじんかんきょしてふぜんをなす)
小人物は暇を持て余すと、とかくろくでもないことをするということ。「小人」は君子に対する言葉で、人徳や教養のない卑しい者の意。「閑居」は本来「間居」と書き、暇でのんびり暮らすこと。
食膳に供する(しょくぜんにきょうする)
料理をして食事として出すこと。
食膳に上る(しょくぜんにのぼる)
食事として出ること。
知らぬ存ぜぬ(しらぬぞんぜぬ)
自分は何一つ知らないということを主張する言葉。
垂涎(すいぜん)
食べ物を食べたくてよだれを垂らすこと。
垂涎の的(すいぜんのまと)
皆が羨ましがり、何としてでも手に入れたいと思う物のこと。 思わず涎(よだれ)を垂らすほど食べたい物という意味から。
据え膳食わぬは男の恥(すえぜんくわぬはおとこのはじ)
女のほうから誘っているのに、それに応じないのは男の恥だということ。「据え膳」は、目の前に用意された食膳のこと。俗に女性からの誘いのこと。
透き間風は冷たい(すきまかぜはつめたい)
義理の仲が、なんとなくしっくりいかないことのたとえ。 または、友人や男女の間で感情の隔たりができると、まったくの他人どうしではないだけに、余計に冷たさが身にしみるというたとえ。
積善の家には必ず余慶あり(せきぜんのいえにはかならずよけいあり)
善行を積み重ねた家には、その報いとしての幸せが必ず子孫におとずれるということ。「余慶」は、祖先の善行のおかげで、子孫に及ぶ幸福のこと。
節季の風邪は買っても引け(せっきのかぜはかってもひけ)
節季のような忙しい時でも、病気ならば公然と休めるから、病気もときには重宝だということ。
枘鑿相容れず(ぜいさくあいいれず)
物事が食い違ってかみ合わないこと。 「枘」は、ほぞ。木材と繋ぎ合わせるときの差し込み。 「鑿」は、ほぞを入れるための穴。 差し込みと穴の形が違っていて、うまく納まらないことから。
是が非でも(ぜがひでも)
善悪に関わらず。何が何でも。 ある物事の実現を強く望む言葉。 「理が非でも」ともいう。
絶景というは樽肴ありてこそ(ぜっけいというはたるさかなありてこそ)
すばらしい景色は、酒や肴があってこそ楽しく、酒抜きで景色を見てもつまらないということ。
銭ある時は鬼をも使う(ぜにあるときはおにをもつかう)
金さえあれば、どんな人でも自分の思うままに使うことができるということ。 金があれば、怖い鬼であろうとも思い通りにすることができるとの意から。
銭あれば木物も面を返す(ぜにあればきぶつもつらをかえす)
どんなに冷淡な者でも、金の力にはなびくというたとえ。 金銭があれば、感情がない木仏さえも振り向くとの意から。
銭なしの市立ち(ぜになしのいちだち)
方法や手段もなく何かをしようとしても、どうにもならないことのたとえ。 銭を持たずに市場に行っても、何も買えずにただ立っているだけとの意から。
銭は足なくして走る(ぜにはあしなくしてはしる)
金には足などついていないのに、まるで足があるかのように、人から人へと渡って行くということ。
是非に及ばず(ぜひにおよばず)
どうすることもできない。仕方がない。やむを得ない。そうするしかない。 その物事の善悪を議論する余裕がないということから。 本能寺の変で織田信長が言ったとされる言葉。
是非は道によって賢し(ぜひはみちによってかしこし)
物事のよしあしを判断するのは、その道の専門家に任せるのが確かだということ。
