「生」を含む故事・ことわざ・慣用句
「生」を含む故事・ことわざ・慣用句 — 128 件
諦めは心の養生(あきらめはこころのようじょう)
失敗や不運をくよくよ考えるより、きっぱり諦めたほうが精神的に良いということ。
徒花に実は生らぬ(あだばなにみはならぬ)
どんなに見かけがよくても、実質が伴わなくてはよい成果を上げることはできないということ。 「徒花」は、咲いても実を結ばずに散る花。 どんなに美しい花を咲かせようとも、実のならない徒花では仕方がないとの意から。
生き馬の目を抜く(いきうまのめをぬく)
生きている馬の目を抜き取るほどすばやいこと。また、ずるくて油断も隙もならないことのたとえ。
生き肝を抜く(いきぎもをぬく)
人をひどく驚かせる。 「生き胆」は生きている動物の肝。
生きた心地もしない(いきたここちもしない)
恐ろしさのあまり、生きているという感じがしないさま。
生きた空もない(いきたそらもない)
恐ろしさのあまり、生きているという感じがしないこと。
生き血を吸う(いきちをすう)
情け容赦なく、他人のものを取り上げること。 「生き血をすする」「生き血をしぼる」ともいう。
生きている犬は死んだライオンに勝る(いきているいぬはしんだらいおんにまさる)
どんな偉人でも死んでしまってはおしまいだから、凡人でも生きてる方がいいということ。
生きとし生けるもの(いきとしいけるもの)
この世に生きているすべてのもの。
生き恥を曝す(いきはじをさらす)
生きながらえたために恥をかくこと。
生き身は死に身(いきみはしにみ)
この世に生きているものは、いつかは必ず死ぬものであるということ。
生きるべきか死すべきかそれが問題だ(いきるべきかしすべきかそれがもんだいだ)
生きるか死ぬか、どちらの方法を選ぶべきなのかなど、選択すべき状況で思い悩む気持ちを表す言葉。シェークスピアの戯曲『ハムレット』から。
生簀の鯉(いけすのこい)
自由を束縛されていることのたとえ。また、死が待ち受けている運命のたとえ。
生ける屍(いけるしかばね)
身体が生きているだけで、精神的には死んだも同然の人。
医者の不養生(いしゃのふようじょう)
口では立派なことを言いながら、自分では実行していないことのたとえ。患者に養生を勧める医者が自分の健康に注意しない意から。
一樹の陰一河の流れも他生の縁(いちじゅのかげいちがのながれもたしょうのえん)
この世で起こるすべての出来事は、すべて前世からの因縁によるものなので大切にしなければならないということ。 同じ木の陰で雨宿りをしたり、同じ流れの水を飲んだりするといった、偶然のちょっとした出来事も、すべて前世からの縁によるものであるとの意から。 「一河の流れを汲むも他生の縁」ともいう。
一生添うとは男の習い(いっしょうそうとはおとこのならい)
一生君を愛して離さない、というのは男が女を口説くときの決まり文句であるということ。
一生の不作(いっしょうのふさく)
生涯にかかわるような失敗。取り返しがつかないほどの失敗。
一朝の怒りに一生を過つ(いっちょうのいかりにいっしょうをあやまつ)
一時的な怒りのために我を忘れて行動すること。 また、そのような行動は身を滅ぼすことになるという戒め。 「一朝の怒りに一生を過つ」ともいう。
生まれたあとの早め薬(うまれたあとのはやめぐすり)
時機に間に合わず、何の役にも立たないことのたとえ。 赤ん坊が生まれた後で、出産を促す薬を飲むとの意から。
生まれながらの長老なし(うまれながらのちょうろうなし)
生まれながらにすぐれた人間などいるはずもなく、みんな長い間の修養や経験をつんで立派な人間になるということ。
生まれる前の襁褓定め(うまれるまえのむつきさだめ)
物事の手回しがよすぎて大げさなことのたとえ。 「襁褓」は、おむつのこと。 生まれる前から、赤ん坊のおむつの準備で大騒ぎするとの意から。
生みの親より育ての親(うみのおやよりそだてのおや)
生んでくれた親より、育ててくれた親に愛情も恩義も感じるということ。
生みの苦しみ(うみのくるしみ)
新たに物事を作り出すときの困難や苦労のこと。 出産のときの苦しみの意から。
瓜の蔓に茄子は生らぬ(うりのつるになすびはならぬ)
一つの原因からは、それ相応の結果しか生まれないということ。また、平凡な親からは、非凡な子どもは生まれないということのたとえ。
漆は剝げても生地は剝げぬ(うるしははげてもきじははげぬ)
人の持って生まれた素質は変わることはないというたとえ。 漆器の表面の漆は剝げ落ちても、下の生地は剝げることはないことから。
生んだ子より抱いた子(うんだこよりだいたこ)
生んだだけで育てていない実の子より、小さい時から育てた他人の子のほうがかわいいということ。
榎の実は生らば生れ木は椋の木(えのみはならばなれきはむくのき)
道理にかなっていなくても主張を曲げないこと、また強情で人の意見に従わないことのたとえ。 榎の木を椋の木と誤り、榎の実が生った後も椋の木だと言い張ることから。 「椋の木の下にて榎の実を拾う」「椋は生っても木は榎」ともいう。
縁なき衆生は度し難し(えんなきしゅじょうはどしがたし)
人の忠告を聞き入れようとしない者は、救いようがないということ。 「縁」は、ここでは仏縁の意。 「衆生」は、仏が慈悲を垂れる人間。 「度す」は、悟りを開かせること。 仏縁のない者は、たとえ仏でも救いようがないとの意から。
往生際が悪い(おうじょうぎわがわるい)
諦めなければならない状態なのに、未練がましく執着しているさま。 「往生際」は、死に際の意。
男猫が子を生む(おとこねこがこをうむ)
ありえないことのたとえ。
隠れたる信あらば顕われたる利生(かくれたるしんあらばあらわれたるりしよう)
心中に秘めている誠実さは、いつか自然に外にあらわれて自分自身の利得になるということ。 心中に神仏への信仰心があれば、必ずご利益があるとの意から。 「隠れたる信あらば顕われたる利生」「隠れたる信あらば顕われたる験」ともいう。
金の生る木(かねのなるき)
いくら使っても無くならない財源のたとえ。
黴が生える(かびがはえる)
古くなり、使い物にならなくなること。また、時代おくれであること。
間隙を生じる(かんげきをしょうじる)
人間関係が悪化すること。 互いのあいだに隙間ができる意から。
堪忍は一生の宝(かんにんはいっしょうのたから)
怒りを抑えたり痛みや苦しみをこらえたりすることができると、一生の宝を持っているように安らかで幸福に生きていくことができるので、生涯心がけていくべきであるということ。 「堪忍は身の宝」ともいう。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥(きくはいっときのはじ、きかぬはいっしょうのはじ)
知らないことを聞くのはほんの一時の恥で済むが、聞かずに知らないまま過ごすのは一生恥ずかしいということ。
生地が出る(きじがでる)
何かのきっかけで、本来その人が持っている性格や隠していた本性があらわれること。 「生地を出す」ともいう。
木の股から生まれる(きのまたからうまれる)
人の情、特に男女間の情愛を理解しないことのたとえ。
九死に一生を得る(きゅうしにいっしょうをえる)
ほとんど助かる見込みがないと思われる危険な状態に陥りながら、かろうじて助かること。 「十のうち、九が死、一が生」のような助かる見込みがほとんどない状況で生き残るとの意から。 「万死に一生を得る」「万死の中に一生を得」「万死を出でて一生に遇う」「九死一生」などともいう。
疑心、暗鬼を生ず(ぎしん、あんきをしょうず)
疑いの心を持つと、何でもないことまで恐ろしく、不安になること。
薬より養生(くすりよりようじょう)
病気になって薬に頼るより、普段から養生して健康を保つことが大事だということ。
口から先に生まれる(くちからさきにうまれる)
口が達者でお喋りな人に対していう言葉。
紅は園生に植えても隠れなし(くれないはそのうにうえてもかくれなし)
すぐれている人は、どんな所にいても目立つというたとえ。 「紅」は、紅花(べにばな)のこと。 紅花はどんな花園に植えても際立つとの意から。
食わぬ殺生(くわぬせっしょう)
自分のためにもならないのに無益な殺生をすること。
芸術は長く、人生は短し(げいじゅつはながく、じんせいはみじかし)
人の一生は短いが、すぐれた芸術作品は作者の死後も後世に残るということ。古代ギリシャの医師ヒポクラテスの言葉「医術をきわめるには長い年月がかかるが、人の一生は短い」から転じたもの。
現世安穏、後生善処(げんぜあんのん、ごしょうぜんしょ)
法華経を信じる人は、この世では安穏に生活でき、あの世ではよい世界に生まれるということ。
後生、畏るべし(こうせい、おそるべし)
若い人はいろいろな可能性を持っていて、将来どんな力量を現すかわからないので恐れなければならないということ。「後生」は、あとから生まれる人、後輩の意。
苔が生える(こけがはえる)
長い年月を経て古びる様子。役に立たなくなる様子。
子は産むも心は生まぬ(こはうむもこころはうまぬ)
親は子どもは生んでも、その子の心まで産むわけではないから、心が親に似ていなくても当然だということ。
転がる石には苔が生えぬ(ころがるいしにはこけがはえぬ)
活発に行動をしている人は常に健康で生き生きしていられることのたとえ。また、転職や転居を繰り返す人は地位も得られず金も貯まらないことのたとえ。 「転石苔を生せず」「転石苔むさず」ともいう。
後生が大事(ごしょうがだいじ)
来世の安楽を願って信心することが大切だということ。
後生大事や金欲しや死んでも命のあるように(ごしょうだいじやかねほしやしんでもいのちのあるように)
来世の安楽を願いながら、現世の金も欲しいと、あれもこれも願う人間の強欲さのたとえ。
後生願いの六性悪(ごしょうねがいのろくしょうあく)
来世の安楽を願っていながら、たちの悪いことをするたとえ。「後生願い」は、来世の極楽往生を願うこと。「六性悪」は、喜・怒・哀・楽・愛・悪の六つの感情の「六性」と「性悪」をかけていったもの。
後生は徳の余り(ごしょうはとくのあまり)
一生懸命に徳を積めば、おのずと来世の安楽もかなえられるということ。また、現世の暮らしに余裕があってこそ、来世の安楽を祈ることができるということ。
鯖の生き腐れ(さばのいきぐされ)
鯖はいたみやすく、新鮮なように見えても腐りはじめてるいることがあるということ。
死しての千年より生きての一日(ししてのせんねんよりいきてのいちにち)
死んでからの千年より、この世での一日のほうが大事だということ。
死生、命あり(しせい、めいあり)
人の生死は天命によるもので、人の力ではどうすることもできないということ。「死生」は、死ぬことと生きること。
死せる孔明、生ける仲達を走らす(しせるこうめい、いけるちゅうたつをはしらす)
生前の威信が死後も保たれ、人々を恐れさせるたとえ。 中国、蜀の諸葛孔明が魏の司馬仲達と対陣中病死した。退却しようとした蜀軍を仲達はただちに追撃したが、蜀軍は孔明の遺命に基づいて反撃の姿勢を見せたため、仲達は孔明がまだ死んでおらず、何か策略があるのではないかと恐れ退却したという故事から。
死中に生を求める(しちゅうにせいをもとめる)
助かる望みがない絶望的な状態の中で、なおも必死に活路を探し求めること。 「死中に生を求める」ともいう。
死に別れより生き別れ(しにわかれよりいきわかれ)
死に別れもつらいが、生き別れのほうがもっとつらいということ。
死ねば死に損、生くれば生き得(しねばしにぞん、いくればいきどく)
生きていればいつか幸運にめぐり合うかもしれないから生き得と言えるが、死ねばそれで終りだから死に損である。人は生きていなければどうにもならにということ。
正直は一生の宝(しょうじきはいっしょうのたから)
正直者は人から信頼され、それによって成功や幸福を手にすることができる。正直こそ一生を通じて大切に守るべき宝だというたとえ。
生者必滅、会者定離(しょうじゃひつめつ、えしゃじょうり)
命ある者はいつか必ず死に、出会った者はいずれ別れるのがこの世の定めであるということ。
心臓に毛が生えている(しんぞうにけがはえている)
普通では考えられないほどに厚かましく恥知らずな様子。
死んでの長者より生きての貧乏(しんでのちょうじゃよりいきてのびんぼう)
死後に金持ちになるより、貧乏でも生きているほうがよいということ。
人生、意気に感ず(じんせい、いきにかんず)
人は相手の心意気に感じて行動するのであって、金銭や名誉のためではないということ。
人生、字を識るは憂患の始め(じんせい、じをしるはゆうかんのはじめ)
人は字を覚え学問をするようになると、心を痛めることが多くなる。なまじ字を覚え学問を積むと、かえって心配したり悩んだりするようになるということ。
人生、朝露の如し(じんせい、ちょうろのごとし)
人生は朝日が射せばたちまち消えてしまう露のようにはかないものだということ。
人生行路難し(じんせいこうろかたし)
人の一生には多くの困難があるため、生きていくのは簡単ではないということ。
人生七十、古来稀なり(じんせいしちじゅう、こらいまれなり)
七十歳まで生きる人は、昔から非常に少ないということ。このことから七十歳のことを「古稀(古希)」という。
人生僅か五十年(じんせいわずかごじゅうねん)
人の一生は短くはかないものだということ。 人の寿命はたかだか五十年との意から。 「人生僅か五十年」「人間五十年」ともいう。
生ある者は必ず死あり(せいあるものはかならずしあり)
生きているものは必ず死ぬときがくるということ。
生は難く、死は易し(せいはかたく、しはやすし)
苦しみに耐えて生きるのは難しいが、苦しみに耐えられず死を選ぶのは容易であるということ。
生は寄なり死は帰なり(せいはきなりしはきなり)
人は仮にこの世に身を寄せて生きているのであり、死ねば本来いた所に帰るということ。
生は死の始め(せいはしのはじめ)
この世に生まれる時は、死に向かう道のりの始まりでもあるということ。
生命ある所希望あり(せいめいあるところきぼうあり)
人は希望と忍耐をもって生きるべきであるという戒め。 生きていれば希望は必ずあるということから。
生を偸む(せいをぬすむ)
死ぬべき時に死なずに恥を忍んで生きながらえること。また、何もせず、ただいたずらに生きていること。「生」は生命・生活、「偸む」は貪るという意。
先生と言われるほどの馬鹿でなし(せんせいといわれるほどのばかでなし)
先生という呼称は敬意を伴わない場合もある。先生と呼ばれて気分をよくするほど馬鹿ではないということ。また、先生と呼ばれていい気になっている者をあざけっていう言葉。
善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや(ぜんにんなおもておうじょうをとぐ、いわんやあくにんをや)
仏の救いを頼みとしない善人でさえ極楽往生を遂げる。まして、仏の救いにすがるしかない悪人が往生できないわけがないということ。