「子」を含む故事・ことわざ・慣用句
「子」を含む故事・ことわざ・慣用句の一覧です。五十音順に表示しています。
赤子のうちは七国七里の者に似る(あかごのうちはななくにななさとのものににる)
赤ん坊ははっきりした特長がないので、似てると思って見ればあちこちの誰にでも似て見えるということ。「七国七里」は諸所方々のこと。
赤子の腕を捩じる(あかごのうでをねじる)
抵抗する力のないものを打ち負かす。また、容易に行えることのたとえ。
赤子の手をねじる(あかごのてをねじる)
抵抗する力のないものを打ち負かす。また、容易に行えることのたとえ。
赤子の手を捩じるよう(あかごのてをねじるよう)
抵抗する力のないものを打ち負かす。また、容易に行えることのたとえ。
赤子の手を捻る(あかごのてをひねる)
抵抗する力のないものを打ち負かす。また、容易に行えることのたとえ。
赤子の手を捻るよう(あかごのてをひねるよう)
抵抗する力のないものを打ち負かす。また、容易に行えることのたとえ。
赤子は泣き泣き育つ(あかごはなきなきそだつ)
赤ちゃんが泣くのは健康な証拠で、赤ちゃんは泣きながら成長していくということ。
赤子を裸にしたよう(あかごをはだかにしたよう)
無力で弱い者をさらに頼りなくしたようす。
秋茄子は嫁に食わすな(あきなすはよめにくわすな)
秋に収穫する茄子を嫁に食べさせてはいけないということ。 「おいしいのでもったいないという姑の嫁いびり」「種が少ないので子宝に恵まれない」「体が冷えてよくない」などの解釈がある。 「おいしいのでもったいないという姑の嫁いびり」の解釈が一般的。
秋の日と娘の子はくれぬようでくれる(あきのひとむすめのこはくれぬようでくれる)
秋の日は暮れないようでいて急に暮れるように、大事にされてきた娘も、嫁にくれないように見えて案外簡単にくれるものだということ。
商人の子は算盤の音で目を覚ます(あきんどのこはそろばんのおとでめをさます)
人の習性は、育つ環境の影響を大きく受けるということ。 商人の子どもは金勘定に敏感で、眠っていても算盤の音で起きるという意味から。
熱火子にかく(あつびこにかく)
緊急事態には、利己心が醜く現れるというたとえ。 炎が自分に迫ってきた時は、炎を我が子の方へ払いのけてでも助かろうとするとの意から。 「熱火子にかく」ともいう。
熱火子に払う(あつびこにはらう)
緊急事態には、利己心が醜く現れるというたとえ。 炎が自分に迫ってきた時は、炎を我が子の方へ払いのけてでも助かろうとするとの意から。 「熱火子にかく」ともいう。
後先息子に中娘(あとさきむすこになかむすめ)
子どもを持つなら三人で、最初と最後は男、真ん中は娘が理想だということ。
晏子の御(あんしのぎょ)
他人の威光によりかかって得意になること。中国斉の宰相晏嬰(あんえい)の御者が、自分が宰相の馬車の御者であることを得意がり、その妻がそれを恥じて離縁を求めた。御者は大いに恥じて精励し、晏嬰に認められて出世したという故事から。
案じるより団子汁(あんじるよりだんごじる)
あれこれ心配しても仕方ないから、団子汁でも食べて気を紛らわしたほうがよいという助言。 「案じる」は「餡汁」の語呂合わせ。 団子汁は餡汁に団子を入れたもの。ただの餡汁よりいいというしゃれでもある。
いい子になる(いいこになる)
自分だけがよく思われるように、ずるく立ち回ること。
家貧しくして孝子顕る(いえまずしくしてこうしあらわる)
貧乏な家庭では、子どもも親を助けるために働いたりするので、その孝行ぶりが目立って人に知られるようになるということ。 逆境のときに、それを助けるものが現れること。
板子一枚下は地獄(いたごいちまいしたはじごく)
船乗りという仕事の危険なことのたとえ。「板子」は和船の底に敷く板。その板の下は、落ちれば死につながる恐ろしい海だということから。
一富士、二鷹、三茄子(いちふじ、にたか、さんなすび)
初夢に見ると縁起がいいとされるものを順に並べたことば。
いとしい子には旅をさせよ(いとしいこにはたびをさせよ)
子どもがかわいいなら、甘やかして育てるより、世の中に出してつらさや苦しさを経験させたほうがいいということ。
馬は飼い殺せ、子供は教え殺せ(うまはかいころせ、こどもはおしえころせ)
子どもは徹底的に教育し、馬の調教も手加減するなということ。 「馬は飼い殺せ、子供は教え殺せ」ともいう。
瓜の蔓に茄子は生らぬ(うりのつるになすびはならぬ)
一つの原因からは、それ相応の結果しか生まれないということ。また、平凡な親からは、非凡な子どもは生まれないということのたとえ。
生んだ子より抱いた子(うんだこよりだいたこ)
生んだだけで育てていない実の子より、小さい時から育てた他人の子のほうがかわいいということ。
江戸っ子の往き大名還り乞食(えどっこのゆきだいみょうかえりこじき)
江戸っ子は気前がよく無計画なので、往きは大名のように贅沢をしてお金を使い果たし、帰りには乞食のように一文無しになるということ。
江戸っ子は五月の鯉の吹き流し(えどっこはさつきのこいのふきながし)
江戸っ子は口は悪いが気性はさっぱりとしていて、物事にこだわらないということ。また、口先ばかり威勢がよくて意気地がないということ。「吹き流し」は、鯉のぼりのことで、吹き抜けで腹の中が空洞になっていることから。「口先ばかりで腸なし」と続けてもいう。
江戸っ子は宵越しの銭は使わぬ(えどっこはよいごしのぜにはつかわぬ)
江戸っ子はその日に稼いだお金はその日のうちに使ってしまうということ。江戸っ子の気前のよさを自慢して言った言葉。
烏帽子を着せる(えぼしをきせる)
妙な誇張をすることのたとえ。話を大げさにすることのたとえ。 「烏帽子」は、昔元服した男子が用いた黒色の帽子で、それをかぶって飾るとの意から。
縁の切れ目は子で繋ぐ(えんのきれめはこでつなぐ)
夫婦仲がうまくいかなくなっても、子どもがいれば縁をつなぎとめてくれるということ。
老いては子に従え(おいてはこにしたがえ)
年をとったら出しゃばらずに、何事も子どもに任せて従っていくほうがいいということ。
負うた子に教えられて浅瀬を渡る(おうたこにおしえられてあさせをわたる)
人は時には自分より経験の浅い年下の者から物事を教わることもあるというたとえ。背中に負ぶった子に浅瀬を教えられて川を無事に渡るとの意から。
負うた子より抱いた子(おうたこよりだいたこ)
身近なことを優先したり、大事にするのが人情だというたとえ。背中に負ぶった子より前に抱いている子を先に面倒見てしまう意から。
負うた子を三年探す(おうたこをさんねんさがす)
手近にあることに気づかず、長い間あちこちを探し回るたとえ。 背中に負ぶった子どもをどこへ行ったと三年も探す意から。
負うた子を三年捜す(おうたこをさんねんさがす)
手近にあることに気づかず、長い間あちこちを探し回るたとえ。 背中に負ぶった子どもをどこへ行ったと三年も探す意から。
多し少なし子三人(おおしすくなしこさんにん)
子どもは三人いると、多からず少なからずで理想的だということ。
大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然(おおやといえばおやもどうぜん、たなこといえばこもどうぜん)
借家人にとって家主は親と同様の存在であり、家主にとって借家人は我が子同様の存在だということ。「店子」は、借家人の意。昔の大家と店子の関係をいった言葉。
恐れ入谷の鬼子母神(おそれいりやのきしもじん)
「恐れ入りました」をしゃれていう言葉。「鬼子母神」は、出産・育児の神で、その鬼子母神を祭る東京都台東区入谷と「恐れ入りやした」の「入りや」をかけていったもの。
お茶の子さいさい(おちゃのこさいさい)
物事をたやすく行うことができる様子。
男猫が子を生む(おとこねこがこをうむ)
ありえないことのたとえ。
思うようなら子と三人(おもうようならことさんにん)
人生が思い通りになるなら、夫婦と子ども一人の三人で暮らすのが一番いいということ。
親が親なら子も子(おやがおやならこもこ)
親と子はよく似るものだということ。親がだめだと子どももだめだというように、悪いところが似た場合に多く使われる。
親苦、子楽、孫乞食(おやく、こらく、まごこじき)
親が苦労して築いた財産も、子が楽をして使い果たし、孫の代は乞食のような暮らしになりがちだというたとえ。
親子の仲でも金銭は他人(おやこのなかでもきんせんはたにん)
金銭に関しては、親子の間でも他人と同じようにけじめをつけるべきだということ。
親子は一世(おやこはいっせ)
親子の関係は現世だけのものであるということ。 「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と続けても言う。
親子は一世、夫婦は二世、主従は三世(おやこはいっせ、ふうふはにせ、しゅじゅうはさんせ)
親子の関係は現世だけのものであり、夫婦は前世と現世または現世と来世の二世に渡る。主従関係は、前世・現世・来世の三世にまたがるほど深いということ。
親に似ぬ子は鬼子(おやににぬこはおにご)
子どもは当然親に似るものであり、親に似ない子はいないということ。 親に似ない子は人間の子ではなく鬼の子であるとの意から。
親に似ぬ子は鬼っ子(おやににぬこはおにっこ)
子どもは当然親に似るものであり、親に似ない子はいないということ。 親に似ない子は人間の子ではなく鬼の子であるとの意から。
親の意見と茄子の花は千に一つも無駄はない(おやのいけんとなすびのはなはせんにひとつもむだはない)
茄子の花に無駄花がないように、親が子どもにいう意見も一つも無駄がなく、すべて子どもの役に立つことばかりであるということ。
親の因果が子に報う(おやのいんががこにむくう)
親の悪行の結果、罪のない子どもが災いを受けること。
親の恩は子で送る(おやのおんはこでおくる)
わが子をりっぱに育てることで、親から受けた恩を返すということ。「送る」は恩に報いるという意。
親の心、子知らず(おやのこころ、こしらず)
子どもを思う親の深い愛情を知らず、子どもは勝手気ままなことをするということ。
親の十七、子は知らぬ(おやのじゅうしち、こはしらぬ)
親は自分が未熟だった若い頃の失敗談などをしないから、子どもにはわからない。完全なふりをして子どもに意見する親を皮肉っていう言葉。
親は親、子は子(おやはおや、こはこ)
親子でもそれぞれが別の人間であり、性質や才能が同じとは限らないということ。
親はなくとも子は育つ(おやはなくともこはそだつ)
親がいなくても、子どもはなんとか成長していく。世の中は、そう心配することもないというたとえ。
親は木綿着る、子は錦着る(おやはもめんきる、こはにしききる)
親は一生懸命働き質素に暮らして財産を築き、子はその苦労を知らずにぜいたくをして、親の財産を浪費するというたとえ。
親馬鹿子馬鹿(おやばかこばか)
わが子かわいさのあまり、親は子の愚かさを見抜けず、子は親の愛情に甘えて愚かなまねをするということ。
負わず借らずに子三人(おわずからずにこさんにん)
人の世話にならず、借金もなく、子どもが三人ぐらいいる家庭が理想的で幸福だということ。
蛙の子は蛙(かえるのこはかえる)
子どもは親に似るものであるということ。また、凡人の子はやはり凡人であるというたとえ。
壁に耳あり障子に目あり(かべにみみありしょうじにめあり)
どこで誰が見たり聞いたりしているかわからないので、話す内容には十分気をつけなくてはいけないという戒めの言葉。 密かに話しているつもりでも、壁に耳を当てて聞いたり、障子に穴をあけてのぞいたりしている者がいるかもしれないとの意から。 「壁に耳障子に目」「壁に耳」「壁に耳あり」「障子に目」などともいう。
壁に耳障子に目(かべにみみしょうじにめ)
どこで誰が見たり聞いたりしているかわからないので、話す内容には十分気をつけなくてはいけないという戒めの言葉。 密かに話しているつもりでも、壁に耳を当てて聞いたり、障子に穴をあけてのぞいたりしている者がいるかもしれないとの意から。 「壁に耳障子に目」「壁に耳」「壁に耳あり」「障子に目」などともいう。
紙子着て川へ入る(かみこきてかわへはいる)
軽率な行いによって、自ら破滅を招くことのたとえ。 「紙子」は、渋柿を塗った紙で仕立てた衣服。 紙の服を着て川の中へ入るという無謀なことをいう。
紙子着て川へはまる(かみこきてかわへはまる)
軽率な行いによって、自ら破滅を招くことのたとえ。 「紙子」は、渋柿を塗った紙で仕立てた衣服。 紙の服を着て川の中へ入るという無謀なことをいう。
芥子は気短に搔かせろ(からしはきみじかにかかせろ)
からしは手早くかかないと辛みがぬけるので、気の短い者に勢いよくかかせろということ。
かわいい子には旅をさせよ(かわいいこにはたびをさせよ)
子どもがかわいいなら、甘やかして育てるより、世の中に出してつらさや苦しさを経験させたほうがいいということ。
寒に帷子、土用に布子(かんにかたびら、どようにぬのこ)
物事が逆さまであること。また、季節はずれで役に立たないことのたとえ。 「帷子」は裏地をつけない夏物の衣類、「布子」は木綿の綿入れのこと。 冬の寒い時に単衣の帷子を着て、夏の暑い時に綿入れを着るということから。 「土用布子(綿入れ)に寒帷子」「夏布子の寒帷子」ともいう。
狐の子は面白(きつねのこはつらじろ)
子は親に似るというたとえ。「面白」は、顔が白いこと。
堯の子堯ならず(ぎょうのこぎょうならず)
親が賢くても子どもは凡庸な場合もあるというたとえ。「堯」は古代中国の伝説上の聖王で、帝位を自分の子どもではなく、よりふさわしい人間へと、摂政の舜に譲った。堯の子であっても堯のように賢明とはかぎらないということ。
孔子の倒れ(くじのたおれ)
どんなにすぐれた人でも失敗することがあるというたとえ。「孔子」は孔子(こうし)の呉音読み。
蜘蛛の子を散らすよう(くものこをちらすよう)
大勢の人がいっせいに四方へ逃げるようす。蜘蛛が入っている袋を破ると、たくさんの蜘蛛の子が四方へ散る様子から。
君子、危うきに近寄らず(くんし、あやうきにちかよらず)
徳のある人は自分を大事にするので、危険なことには決して近づかないということ。
君子に三戒あり(くんしにさんかいあり)
人格者が自ら慎む三つのこと。青年期の色欲、壮年期の争い事、老年期の強欲をいう。
君子に三楽あり(くんしにさんらくあり)
人格者が楽しみとする三つのこと。 両親兄弟が健在なこと、世の中に恥じることのない正しい心を持つこと、優れた人材を教育することをいう。 単に「三楽」ともいう。
君子の過ちは日月の食のごとし(くんしのあやまちはじつげつのしょくのごとし)
君子はたとえ過ちを犯すようなことがあっても、日食や月食が一時的なように、すぐに改めてもとの徳性に返るものだということ。
君子の三楽(くんしのさんらく)
人格者が楽しみとする三つのこと。 両親兄弟が健在なこと、世の中に恥じることのない正しい心を持つこと、優れた人材を教育することをいう。 単に「三楽」ともいう。
君子の交わりは淡きこと水のごとし(くんしのまじわりはあわきことみずのごとし)
君子の人との交際は、水のようにさっぱりしているが、友情は永く変わることがないということ。
君子は憂えず懼れず(くんしはうれえずおそれず)
徳の高い人物は、行いが正しく心にやましいところがないから、何も心配しないし恐れることもないということ。
君子は器にならず(くんしはきにならず)
一つの使い道しかない器者と異なり、君子は多方面にわたって自在に才能を発揮できるということ。
君子は独りを慎む(くんしはひとりをつつしむ)
徳のある人は人が見ていない所でも行いを慎むということ。
君子は豹変す(くんしはひょうへんす)
人の態度や意見ががらりと変わることのたとえ。 豹の毛が生え変わって斑紋が鮮やかになるように、君子は過ちに気付いたらすぐにそれを改めて新しくするということ。 本来は良い方向へ変わる意味で用いたが、現在では悪い方向へ変わる意味で用いることが多い。
君子は庖厨を遠ざく(くんしはほうちゅうをとおざく)
君子は憐れみ深いので、動物が捌かれる姿が見えてたり動物の悲鳴が聞こえたりする厨房に近づくことは忍び難いということ。
君子は交わり絶ゆとも悪声を出さず(くんしはまじわりたゆともあくせいをださず)
徳のある人は人と絶交することがあっても相手の悪口は決して言わないということ。
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず(くんしはわしてどうぜず、しょうじんはどうじてわせず)
すぐれた人物は、人と仲良くするが自主性を失わずむやみに同調しない。つまらぬ人間は、すぐに同調し自主性を欠いているということ。
恋の山には孔子の倒れ(こいのやまにはくじのたおれ)
どんなにすぐれた人でも、色恋のこととなると思慮分別を失い、間違いを犯してしまうというたとえ。「孔子」は孔子(こうし)の呉音読み。
孝行も子による(こうこうもこによる)
親孝行は有難いが、どんな子でも、どんな手段でもいいというわけではない。悪いことをして孝行されるなら、してもらわないほうがいいということ。
孔子も時に遇わず(こうしもときにあわず)
どんなに優れた人でも機会に恵まれなければ才能を発揮できずに終わることもあることのたとえ。 立派な才能を持っていた孔子も、時勢に乗れず生涯不遇であったとの意から。
虎穴に入らずんば虎子を得ず(こけつにいらずんばこじをえず)
危険なことも避けていては、大きな成功は得られないということ。 虎の住む穴に入らなければ、虎の子をつかまえることは出来ないとの意から。
子三人、子宝(こさんにん、こだから)
子どもは三人ぐらいが理想的で、子宝というのにふさわしいということ。
乞食の子も三年経てば三つになる(こじきのこもさんねんたてばみっつになる)
生まれた子も三年経てばちゃんと三歳になるように、どんな物事も時が経てば変化し成長するということ。 「乞食の子も三年経てば三つになる」ともいう。
子宝、脛が細る(こだから、すねがほそる)
親にとって子どもは宝であるが、育てるためのは脛が細くなるような苦労をするということ。
子で子にならぬ時鳥(こでこにならぬほととぎす)
子供川端、火の用心(こどもかわばた、ひのようじん)
子どもが川に落ちないように注意することと、火の用心をすることが大事だということ。
子供叱るな来た道だもの年寄り笑うな行く道だもの(こどもしかるなきたみちだものとしよりわらうなゆくみちだもの)
子どものいたずらなどは誰しも身に覚えがあるので叱るべきではないし、自分もいずれ年をとるので老人を笑いものにすべきではないということ。
子供好きに子なし(こどもずきにこなし)
子どもが好きな人には、子どもがない場合が多いということ。
子供の喧嘩に親が出る(こどものけんかにおやがでる)
子ども同士の喧嘩に親が口出しして、自分の子どもの味方する愚かさを非難する言葉。また、大人気ないふるまいや余計な干渉をするたとえ。
子供の使い(こどものつかい)
要領を得ず、役に立たない使いのたとえ。
子供の根問い(こどものねどい)
子どもが何にでも疑問を持って、根掘り葉掘り問いただすこと。
子供は教え殺せ、馬は飼い殺せ(こどもはおしえころせ、うまはかいころせ)
子どもは徹底的に教育し、馬の調教も手加減するなということ。 「馬は飼い殺せ、子供は教え殺せ」ともいう。
子供は風の子、大人は火の子(こどもはかぜのこ、おとなはひのこ)
子どもは寒い風が吹く中でも元気に外で遊びまわり、大人は寒がって火のそばを離れないということ。
子に過ぎたる宝なし(こにすぎたるたからなし)
子どもは最上の宝であるということ。 「子に勝る宝なし」ともいう。
子に引かるる親心(こにひかるるおやごころ)
子に勝る宝なし(こにまさるたからなし)
子どもは最上の宝であるということ。 「子に勝る宝なし」ともいう。
小糠三合あったら養子に行くな(こぬかさんごうあったらようしいにいくな)
男はわずかでも財産があるなら、気苦労の多い婿養子にはならずに独立して生計を立てよということ。 「小糠三合」は、わずかな財産のたとえ。 「婿に行くな」は「入り婿すな」「養子に行くな」などともいう。 「小糠」は「粉糠」とも書く。
この親にしてこの子あり(このおやにしてこのこあり)
親が立派だからこそ、子どもも優秀であるということ。悪い親だから、子どもも悪くなるという意味で使われることも多い。
子の心、親知らず(このこころ、おやしらず)
親はとかく、子どもの本当の心や考えを察知することは出来ないということ。
この父あって、ここにこの子あり(このちちあって、ここにこのこあり)
子はあるも嘆き、なきも嘆き(こはあるもなげき、なきもなげき)
子どもはあればあるで心配事が多く、なければないで嘆きの種になるということ。
子は産むも心は生まぬ(こはうむもこころはうまぬ)
親は子どもは生んでも、その子の心まで産むわけではないから、心が親に似ていなくても当然だということ。
子は鎹(こはかすがい)
子どもは夫婦の縁をつなぎとめる鎹のような存在で、我が子への愛情から夫婦の仲がなごやかに保たれるということ。「鎹」は、材木をつなぎ止めるためのコの字型の鉄製の釘のこと。
子は三界の首枷(こはさんがいのくびかせ)
親は子どものことにとらわれて、終生自由を束縛されてしまうということ。「三界」は、過去・現在・未来の三世のこと。「首枷」は、罪人の首にはめて自由を束縛する刑具。子どもは三界にわたって親の自由を拘束する首枷のようなものだということ。
子ほど喜ばせにくいものはなく親ほど喜ばせやすいものはない(こほどよろこばせにくいものはなくおやほどよろこばせやすいものはない)
親の愛情を当然と思っている子どもを喜ばせるのは難しいが、親は子どものわずかな孝養でも大喜びするということ。
子ゆえの闇に迷う(こゆえのやみにまよう)
子どもを思うあまり、親が暗闇に迷いこんだように思慮分別がつかなくなるたとえ。
子を思う夜の鶴(こをおもうよるのつる)
子を思う親の情愛が深いことのたとえ。 「雉」はきじのこと。 雉は野を焼かれたら危険を顧みずに巣にいる子どもを助けに戻り、鶴は霜の降りる寒い夜には自分の羽を広げて子を暖めるとの意から。 単に「焼け野の雉」「夜の鶴」、また「夜鶴子を思う」「子を思う夜の鶴」ともいう。 「焼け野の雉」は、身を隠すところのない雉のことから、危険にさらされることのたとえとしてもいわれる。
子を知ること父に若くはなし(こをしることちちにしくはなし)
父親は子どもの長所や短所を誰よりもいちばんよく知っているということ。「若くはなし」は、及ぶものはないという意。
子を棄つる藪はあれど身を棄つる藪はなし(こをすつるやぶはあれどみをすつるやぶはなし)
困窮すると最愛のわが子でも棄てることができるが、自分の身だけは棄てることができないということ。
子を見ること親に如かず(こをみることおやにしかず)
子どもの長所や短所をいちばんよく知っているのは親であり、親に及ぶものはないということ。
子を持って知る親の恩(こをもってしるおやのおん)
自分が子どもを持ち育ててみて、初めて親のありがたさがわかり恩を感じるということ。
才子、才に倒れる(さいし、さいにたおれる)
優れた才能を持っている人は、その才能を過信しすぎて、かえって失敗することがあるということ。
妻子を置く所が故郷(さいしをおくところがこきょう)
故郷を出て来た人がそこで所帯を持ち、妻子のいるその場所を第二の故郷と思って頑張る覚悟をいう。
猿に烏帽子(さるにえぼし)
外見だけ装って、実質の伴わないことのたとえ。また、ふさわしくないことをするたとえ。 猿に烏帽子をかぶせても似合わないことから。
三歳の翁、百歳の童子(さんさいのおきな、ひゃくさいのどうじ)
子どもでも知恵も分別もある者もいれば、老人でも無知で愚かな者もいるということ。 人の賢さは年齢に左右されないということ。 「八歳の翁百歳の童」「十歳の翁百歳の童」「百歳の童、七歳の翁」などともいう。
三人子持ちは笑うて暮らす(さんにんこもちはわろうてくらす)
子どもを持つなら三人くらいがちょうどよく、幸せな暮らしができるということ。
三拍子揃う(さんびょうしそろう)
必要な三つの条件が揃うこと。また、全ての条件が備わること。「三拍子」は、能楽の囃子で小鼓・大鼓・太鼓などの三種の楽器でとる拍子のこと。
残念閔子騫(ざんねんびんしけん)
「残念」を洒落て言う言葉。 中国の孔子の弟子の「顔淵(がんえん)」を「残念」にかけて、同門の「閔子騫(びんしけん)」と続けた語呂合わせ。
子細に及ばず(しさいにおよばず)
細かいことを言う必要はないということ。
獅子、身中の虫(しし、しんちゅうのむし)
組織などの内部にいながら害を与える者や、恩を仇で返す者のたとえ。獅子の体内に寄生して、恩恵を受けていながらついには獅子に害を加えて死に至らせる虫の意から。
獅子の子落とし(ししのこおとし)
我が子に苦しい経験をさせて、厳しく鍛えて育てることのたとえ。獅子は、生まれた子を深い谷に投げ落とし、這い上がってきた強い子だけを育てるという言い伝えから。
獅子の歯嚙み(ししのはがみ)
激しく怒り狂う様子。獅子が恐ろしい表情で歯を食い縛るということから。
獅子の分け前(ししのわけまえ)
強いものが弱いものを働かせて利益を独占することのたとえ。獅子が弱い動物を従えて、得た獲物を独占したというイソップ寓話から。
獅子は兎を撃つに全力を用う(ししはうさぎをうつにぜんりょくをもちう)
実力のあるものは、小さなことにも手を抜かず何事にも全力で向かうということ。
死なぬ子三人、皆孝行(しなぬこさんにん、みなこうこう)
三人の子どもが親より先に死なずに成人してくれたら、これ以上の孝行はないということ。
死なぬものなら子は一人、減らぬものなら金百両(しなぬものならこはひとり、へらぬものならかねひゃくりょう)
必要な物が必要な分だけあれば十分だということ。 もしも使っても減らないのであれば金は百両、死なないのであれば子どもは一人いればよいとの意から。 「死なぬものなら子は一人、減らぬものなら金百両」ともいう。
死ぬる子は眉目よし(しぬるこはみめよし)
早死にする子にかぎって器量がよく、ふびんで惜しまれるということ。
釈迦に説法、孔子に悟道(しゃかにせっぽう、こうしにごどう)
その道を知り尽くしている人に物事を教える愚かさのたとえ。または、必要のないことを長々しく繰り返し言うこと。 仏教の開祖である釈迦に仏の教えを説いたり、儒教の開祖である孔子に人の道を説いたりするという意味から。 単に「釈迦に説法」ともいう。
杓子で腹を切る(しゃくしではらをきる)
不可能なことのたとえ。 杓子を刀のかわりにしても、腹を切ることはできないことから。
杓子は耳搔きにならず(しゃくしはみみかきにならず)
大きいものが、必ずしも小さいものの代わりのなるとはかぎらないことのたとえ。形が似ていても、杓子は大きすぎて耳かきには使えないということから。
障子に目(しょうじにめ)
どこで誰が見たり聞いたりしているかわからないので、話す内容には十分気をつけなくてはいけないという戒めの言葉。 密かに話しているつもりでも、壁に耳を当てて聞いたり、障子に穴をあけてのぞいたりしている者がいるかもしれないとの意から。 「壁に耳障子に目」「壁に耳」「壁に耳あり」「障子に目」などともいう。
白豆腐の拍子木(しらどうふのひょうしぎ)
見かけは立派でも、実際は役に立たないもののたとえ。豆腐で作った拍子木が使えるはずがないことから。
死んだ子の年を数える(しんだこのとしをかぞえる)
今更どうしようもない過去のことを愚痴ったり後悔したりすることのたとえ。 死んでしまった子が今生きていたら何歳になるだろうかと、年を数えて嘆くとの意から。 「死児の齢を数える」ともいう。
死んだ子は賢い(しんだこはかしこい)
死んだしまった子は良い所だけが思い出され、親の記憶の中ではいつまでも賢いということ。
祖父は辛労、子は楽、孫は乞食(じじはしんろう、こはらく、まごはこじき)
金持ちも長続きはしないことのたとえ。 祖父が苦労して財産を築き、子が楽をして、孫は乞食になるほどに落ちぶれるということから。
重箱の隅は杓子で払え(じゅうばこのすみはしゃくしではらえ)
些細な事に必要以上に干渉せずに大目に見るべきということのたとえ。重箱の隅を杓子で払うと隅に残るということから。
豎子教うべし(じゅしおしうべし)
女子と小人とは養い難し(じょしとしょうじんとはやしないがたし)
女性と器量の小さい人は扱いにくいということ。 孔子の言葉で、この後に「之(これ)を近づくれば則(すなわ)ち不遜(ふそん)、之を遠ざくれば則ち怨む」と続く。 親切にすると図に乗り、遠ざけると恨まれるとの意から。 「女子と小人とは養い難し」ともいう。
女子と小人は養い難し(じょしとしょうじんはやしないがたし)
女性と器量の小さい人は扱いにくいということ。 孔子の言葉で、この後に「之(これ)を近づくれば則(すなわ)ち不遜(ふそん)、之を遠ざくれば則ち怨む」と続く。 親切にすると図に乗り、遠ざけると恨まれるとの意から。 「女子と小人とは養い難し」ともいう。
捨て子は世に出る(すてごはよにでる)
捨て子は出世するということ。親に見捨てられるような人間は逆境にも負けず、たくましく育ち、かえって世に出るものであるということ。
千金の子は市に死せず(せんきんのこはいちにしせず)
金持ちの子は、罪を犯しても金の力によって死罪を免れ、町中で処刑されるようなことにならない。また、金持ち子は、金の力で危険を防ぐことができるので、町中で悪者に殺されるようなことはないということ。金さえあれば身を守ることができるということを皮肉った言葉。「千金」は金持ち、「市」は町の意。
千の蔵より子は宝(せんのくらよりこはたから)
たくさんの財産よりも子どもの方が大切だということ。
袖の下に回る子は打たれぬ(そでのしたにまわるこはうたれぬ)
叱られて逃げるような子は追いかけてでも打ちたくなるが、叱られてもすがりついてくる子は、かわいくて打てないということ。
外孫飼うより犬の子飼え(そとまごかうよりいぬのこかえ)
他家へ嫁いだ娘が生んだ子は、いくらかわいがっても、将来の頼りにはならない。そんな孫をかわいがるより、犬の子をかわいがるほうがましだということ。
その子を知らざればその友を視よ(そのこをしらざればそのともをみよ)
その子のことがわからない時は、付き合っている友達を見ればわかるということ。
竹の子生活(たけのこせいかつ)
たけのこの皮を一枚ずつはいでいくように、身の回りの物を少しずつ売りながら暮らす生活。
竹の子の親勝り(たけのこのおやまさり)
(たけのこはすぐに親竹と同じ、または親竹以上の高さになることから)子どもの成長が早く、すぐに親を凌ぐようになることのたとえ。または、子どもが親よりもすぐれていることのたとえ。 「竹の子」は「筍」とも書く。
たまに出る子は風に遭う(たまにでるこはかぜにあう)
普段しないようなことをすると、失敗したりひどい目に遭ったりするというたとえ。 めったに外に出ない子がたまに外出すると、その日に限って大風が吹くとの意から。
足らず余らず子三人(たらずあまらずこさんにん)
子どもは三人いるのが、多過ぎず少な過ぎずでちょうどいいということ。
抱いた子の塵を食うを知らぬ(だいたこのちりをくうをしらぬ)
内輪のことには案外気が回らないというたとえ。 抱いている子どもが、ごみを口に入れても気がつかないことがあるとの意から。
弾丸黒子の地(だんがんこくしのち)
非常に狭い土地のたとえ。「弾丸」は昔、中国で鳥などを捕るために、はじき弓につけて飛ばしたたま、「黒子」はほくろのこと。
団子隠そうより跡隠せ(だんごかくそうよりあとかくせ)
事を隠そうとする時、思わぬところから露見するかもしれないから、念には念をいれて注意せよということ。こっそり団子を食べたとき、残りの団子だけ隠しても、串を片付けなければばれてしまうので跡が残らないようにせよということ。
団子に目鼻(だんごにめはな)
丸い顔の形容。
男子家を出ずれば七人の敵あり(だんしいえをいずればしちにんのてきあり)
男が世の中に出て活動するようになると、多くの競争相手や敵に出会うということのたとえ。 男が敷居を跨いで外に出れば七人の敵がすでに待ち構えているとの意から。 「敷居を跨げば七人の敵あり」「男子家を出ずれば七人の敵あり」ともいう。
男子厨房に入らず(だんしちゅうぼうにいらず)
男が台所に立って料理をしたり片づけたりするべきではないということ。 「君子は庖厨を遠ざく(君子は憐れみ深いので、動物が捌かれる姿が見えてたり動物の悲鳴が聞こえたりする厨房に近づくことは忍び難い)」が由来とされる。 この言葉が日本に伝わった後に、本来の意味である「憐れみ」が「台所に立つべきではない」に変わったものといわれる。※諸説あり
男子厨房に入らず(だんしちゅうぼうにはいらず)
男が台所に立って料理をしたり片づけたりするべきではないということ。 「君子は庖厨を遠ざく(君子は憐れみ深いので、動物が捌かれる姿が見えてたり動物の悲鳴が聞こえたりする厨房に近づくことは忍び難い)」が由来とされる。 この言葉が日本に伝わった後に、本来の意味である「憐れみ」が「台所に立つべきではない」に変わったものといわれる。※諸説あり
男子の一言、金鉄の如し(だんしのいちごん、きんてつのごとし)
男が一度口にした言葉は、金や鉄のように堅くゆるぎないもので、決して破ってはならないということ。
父父たらずと雖も子は子たらざるべからず(ちちちちたらずといえどもこはこたらざるべからず)
父親が父親の役目を果たさなくても、子どもは子どもとしての役目を果たさなければならないということ。
調子が合う(ちょうしがあう)
互いの性質や考え方などが合致していること。
調子がいい(ちょうしがいい)
相手の機嫌を取ることがうまいこと。 または、体の状態や物事の進み方などの具合がよいこと。
調子が付く(ちょうしがつく)
物事の勢いが増していくこと。
調子に乗る(ちょうしにのる)
物事が滞ることなく進むこと。 または、得意になって軽はずみな言動をすること。
調子を合わせる(ちょうしをあわせる)
相手に反発せずに話を合わせること。 または、音の高低や強弱などをある基準に合わせること。
調子を下げる(ちょうしをさげる)
調子を取る(ちょうしをとる)
釣り合いが取れた状態を保つこと。 または、音の高低や強弱などをある基準に合わせること。
亭主の好きな赤烏帽子(ていしゅのすきなあかえぼし)
どのようなことでも、一家の主人が言うからには従わなければいけないということ。 黒塗りが普通である烏帽子も、主人が赤い烏帽子を好めば家族は同調すべきであるとの意から。
梃子入れをする(てこいれをする)
衰えているものに手を加えて改善すること。 または、下落している相場を人為的に操作して引き上げること。 「梃子入れ」は「梃入れ」とも書く。
梃子でも動かない(てこでもうごかない)
どんな手段を用いても、絶対にその場から動かないことのたとえ。 または、どんな事があっても、頑として言うことをきかないことのたとえ。 梃子は小さな力で大きなものを動かすことができるが、その梃子を用いても動かすことができないことから。
梃子でも動かぬ(てこでもうごかぬ)
どんな手段を用いても、絶対にその場から動かないことのたとえ。 または、どんな事があっても、頑として言うことをきかないことのたとえ。 梃子は小さな力で大きなものを動かすことができるが、その梃子を用いても動かすことができないことから。
てらつつきの子は卵から頷く(てらつつきのこはたまごからうなずく)
生まれながらの才能は、幼い時から自然に現れるというたとえ。「てらつつき」は、きつつきのこと。きつつきの子はえさの虫を捕るために、幼い時から首を上下に動かす癖があることから。
弟子七尺去って師の影を踏まず(でししちしゃくさってしのかげをふまず)
師につき従う時、弟子は三尺ほど後ろを歩いて、師の影を踏んではいけないということ。 弟子は師を敬い礼儀を失わないように心がけるべきであるという戒めの言葉。 「弟子七尺去って師の影を踏まず」「七尺去って師の影を踏まず(踏むな)」ともいう。
弟子は師匠の半減(でしはししょうのはんげん)
いかに優れた弟子であっても、学力や技術は師匠の半分ぐらいのもので、師匠を超えることは難しいということ。
弟子を見る事師に如かず(でしをみることしにしかず)
弟子の能力や人柄をいちばんよく知っているのは師匠であり、とうてい師匠に及ぶものはないということ。
十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人(とおでしんどう、じゅうごでさいし、はたちすぎればただのひと)
子どものころは並外れた秀才と思われていた人も、成長すれば平凡な人間になることが多いということ。
年寄りは二度目の子供(としよりはにどめのこども)
老いるとわがままになったり、甘えたりするようになって子どものようになるということ。 「Old men are twice children.」を訳した言葉。
突拍子もない(とっぴょうしもない)
言動などがその場に相応しくないこと。調子外れであること。
鳶の子は鷹にならず(とびのこはたかにならず)
平凡な人間の子は、やはり平凡な人間になるというたとえ。
虎の子(とらのこ)
非常に大切にして手放さないもの。虎が子を大事にするということから。
虎の子渡し(とらのこわたし)
家計のやりくりに苦しむことのたとえ。虎が子を三頭生むと、その中に彪(ひょう)が一頭いて他の二頭を食おうとするため、川を渡る時に子を彪と二頭だけにしないよう、子の運び方に苦慮するという中国の故事から。
土用布子に寒帷子(どようぬのこにかんかたびら)
物事が逆さまであること。また、季節はずれで役に立たないことのたとえ。 「帷子」は裏地をつけない夏物の衣類、「布子」は木綿の綿入れのこと。 冬の寒い時に単衣の帷子を着て、夏の暑い時に綿入れを着るということから。 「土用布子(綿入れ)に寒帷子」「夏布子の寒帷子」ともいう。
土用綿入れに寒帷子(どようわたいれにかんかたびら)
物事が逆さまであること。また、季節はずれで役に立たないことのたとえ。 「帷子」は裏地をつけない夏物の衣類、「布子」は木綿の綿入れのこと。 冬の寒い時に単衣の帷子を着て、夏の暑い時に綿入れを着るということから。 「土用布子(綿入れ)に寒帷子」「夏布子の寒帷子」ともいう。
ない子では泣かれぬ(ないこではなかれぬ)
子育てには苦労があり時には泣かされることもあるが、たとえ苦労させられても子どもはいたほうがよいということ。
泣く子と地頭には勝てぬ(なくことじとうにはかてぬ)
道理の通じない相手にはかなわないから、争っても無駄ということのたとえ。「地頭」は、中世の荘園管理に当たった権力ある役人。
泣く子に乳(なくこにちち)
効果がすぐに現れることのたとえ。泣いている赤ん坊に乳を与えれば、すぐに泣きやむことから。
泣く子は育つ(なくこはそだつ)
大きな声でよく泣く子どもは元気で、丈夫にたくましく育つということ。
泣く子も黙る(なくこもだまる)
泣きじゃくっている子どもが泣き止んでしまうほど、ひどく恐ろしい存在であることのたとえ。
茄子の花と親の意見は千に一つも無駄はない(なすびのはなとおやのいけんはせんにひとつもむだはない)
茄子の花に無駄花がないように、親が子どもにいう意見もすべて子どもの役に立つことばかりで、一つとして無駄がないということ。
夏布子の寒帷子(なつぬのこのかんかたびら)
物事が逆さまであること。また、季節はずれで役に立たないことのたとえ。 「帷子」は裏地をつけない夏物の衣類、「布子」は木綿の綿入れのこと。 冬の寒い時に単衣の帷子を着て、夏の暑い時に綿入れを着るということから。 「土用布子(綿入れ)に寒帷子」「夏布子の寒帷子」ともいう。
憎まれ子国にはだかる(にくまれこくににはだかる)
人から憎まれるような者にかぎって、世の中では幅をきかせているということ。 「憚る」とは幅をきかすこと。 「憎まれっ子」は「憎まれ子」ともいう。 また、「憎まれ子国にはびこる」「憎まれ子国にはだかる」「憎まれ子世に出ず」「憎まれ者世に憚る」などともいう。
憎まれ子国にはびこる(にくまれこくににはびこる)
人から憎まれるような者にかぎって、世の中では幅をきかせているということ。 「憚る」とは幅をきかすこと。 「憎まれっ子」は「憎まれ子」ともいう。 また、「憎まれ子国にはびこる」「憎まれ子国にはだかる」「憎まれ子世に出ず」「憎まれ者世に憚る」などともいう。
憎まれ子世に出ず(にくまれこよにいず)
人から憎まれるような者にかぎって、世の中では幅をきかせているということ。 「憚る」とは幅をきかすこと。 「憎まれっ子」は「憎まれ子」ともいう。 また、「憎まれ子国にはびこる」「憎まれ子国にはだかる」「憎まれ子世に出ず」「憎まれ者世に憚る」などともいう。
憎まれっ子世に憚る(にくまれっこよにはばかる)
人から憎まれるような者にかぎって、世の中では幅をきかせているということ。 「憚る」とは幅をきかすこと。 「憎まれっ子」は「憎まれ子」ともいう。 また、「憎まれ子国にはびこる」「憎まれ子国にはだかる」「憎まれ子世に出ず」「憎まれ者世に憚る」などともいう。
盗人を捕らえて見れば我が子なり(ぬすびとをとらえてみればわがこなり)
思いがけない事態に直面し、処置に窮することのたとえ。また、親しい者でも油断できないというたとえ。
盗みする子は憎からで縄掛くる人が恨めしい(ぬすみするこはにくからでなわかくるひとがうらめしい)
盗みをした我が子を憎まず、その子を捕まえて縄を掛けた相手を恨むという、親の身びいきのたとえ。
猫の子一匹いない(ねこのこいっぴきいない)
まったく人がいないようす。
猫も杓子も(ねこもしゃくしも)
なにもかも。だれもかれもみんな。 猫の手と杓子が似ているところから。 また、神主も僧侶もという意味の「禰子(ねこ)も釈氏(しゃくし)」や、女性も子どももという意味の「女子(めこ)も弱子(じゃくし)も」などが語源との説もある。
螺子が緩む(ねじがゆるむ)
気持ちがたるんでしまい、だらしなくなること。
螺子が弛む(ねじがゆるむ)
気持ちがたるんでしまい、だらしなくなること。
螺子を巻く(ねじをまく)
気持ちが緩んだ時、注意したり励ましたりして気を引き締めなおすことのたとえ。
寝た子を起こす(ねたこをおこす)
治まっている物事に余計な手出しをして、再度問題を引き起こすことのたとえ。 ようやく寝た子をわざわざ起こして泣かせるとの意から。
子に臥し寅に起きる(ねにふしとらにおきる)
寝る間を惜しんで働くことのたとえ。子の刻(午前零時頃)に寝て、寅の刻(午前四時頃)に起きるということから、遅く寝て早く起きるという意。
眠れる獅子(ねむれるしし)
実力を持っていながら、その能力を十分に出しきれていない国や人物のたとえ。
寝る子は賢い親助け(ねるこはかしこいおやだすけ)
泣かずによく眠る子どもは、手がかからないので親にとってありがたいということ。
寝る子は育つ(ねるこはそだつ)
よく眠る子は元気で丈夫に育つということ。
梯子を外される(はしごをはずされる)
共に物事に取り組んでいた仲間に見捨てられること。孤立すること。 梯子を外されて、高い所から下りられなくなるとの意から。
始めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣くとも蓋取るな(はじめちょろちょろ、なかぱっぱ、あかごなくともふたとるな)
御飯の上手な炊き方をいったもの。炊き始めは弱火で、中ごろは強火にし、途中で蓋を取ってはいけないということ。
花より団子(はなよりだんご)
外観より実利があるもののほうがよいということ。 食べられない花より、団子のほうがありがたいという意味から。
母在りて一子寒く、母去りて三子寒し(ははありていっしさむく、ははさりてさんしさむし)
張子の虎(はりこのとら)
虚勢を張って、空威張りする人。また、首を振る癖がある人。張子の虎は、虎の形をしていても中が空洞だから恐くもなんともないし、首を振り動かすしくみのおもちゃであることから。
判子で押したよう(はんこでおしたよう)
いつも同じことを繰り返していて変化がない様子。 「判子で押したよう」ともいう。
馬鹿と子供には勝てぬ(ばかとこどもにはかてぬ)
理屈が通じない愚か者と子どもには、とうていかなわないということ。
馬鹿な子ほど可愛い(ばかなこほどかわいい)
親にとっては、賢い子より愚かな子のほうがふびんでかわいいということ。
膝っ子に目薬(ひざっこにめぐすり)
はなはだしい見当違いのたとえ。努力しても無駄なことのたとえ。 膝に目薬をさしても効果がないことから。 「尻に目薬」「目薬を尻へさす」「疝気さ目薬」ともいう。
人の子の死んだより我が子の転けた(ひとのこのしんだよりわがこのこけた)
他人の子どもが死んだことよりも、自分の子が転んだことのほうが重要だということ。我が子の大事さのたとえ。また、自分の利益が一番大事ということのたとえ。
雲雀の口に鳴子(ひばりのくちになるこ)
ひっきりなしに続くおしゃべりのたとえ。「鳴子」は、田畑で作物を荒らす鳥を追い払うために使う道具。よくさえずる雲雀の口に鳴子をつけたようにやかましいことから。
貧乏人の子沢山(びんぼうにんのこだくさん)
貧乏な人にかぎって子どもが多いということ。
減らぬものなら金百両、死なぬものなら子は一人(へらぬものならかねひゃくりょう、しなぬものならこはひとり)
必要な物が必要な分だけあれば十分だということ。 もしも使っても減らないのであれば金は百両、死なないのであれば子どもは一人いればよいとの意から。 「死なぬものなら子は一人、減らぬものなら金百両」ともいう。
本卦還りの三つ子(ほんけがえりのみつご)
年をとって、まるで幼児のように無邪気なってしまうこと。「本卦還り」は、還暦のこと。
牡丹に唐獅子、竹に虎(ぼたんにからじし、たけにとら)
絵になる取り合わせのよいもののたとえ。
孫飼わんより犬の子飼え(まごかわんよりいぬのこかえ)
孫を可愛がっても孝養は期待できないから、犬でも飼ったほうがましだということ。
馬子にも衣装(まごにもいしょう)
誰でも外面を飾ると立派に見えるというたとえ。
孫は子より可愛い(まごはこよりかわいい)
孫は子ども以上にかわいいということ。祖父母が孫をかわいがることの甚だしさをいう。
三つ叱って五つほめ、七つ教えて子は育つ(みっつしかっていつつほめ、ななつおしえてこはそだつ)
子どもは少し叱って多くほめ、たくさん教えて育てるのがいいということ。
三つ子に剃刀(みつごにかみそり)
非常に危険なことのたとえ。 「三つ子」は、三歳児のこと。 三歳児ほどの幼い子に剃刀を持たせるとの意から。
三つ子に花(みつごにはな)
そぐわない人に大事なものを預けて安心できないことのたとえ。また、ものの値打ちがわからない者に優れた物を与えても何の役にも立たないことのたとえ。 幼い子に花を持たせてもすぐにめちゃくちゃにしてしまうとの意から。
三つ子の魂百まで(みつごのたましいひゃくまで)
幼い時の性格は、年をとっても変わらないということ。
醜い家鴨の子(みにくいあひるのこ)
みんなから容姿が悪いとか、愚かだとか言われていても、大人になってきれいになったり、偉くなったりする子どものこと。アンデルセンの童話から。
無患子は三年磨いても黒い(むくろじはさんねんみがいてもくろい)
生まれつきの性質は変えることはできないというたとえ。 「無患子」は、山地に生える落葉高木。種子は黒色で羽根つきの羽根の玉に使われる。 その黒色の種子をいくら磨いても白くはならないとの意から。
鞭を惜しめば子供は駄目になる(むちをおしめばこどもはだめになる)
面子が立つ(めんつがたつ)
体裁が保たれること。
持つべきものは子(もつべきものはこ)
他人ではあてにできない事も、わが子ならばしてくれる。子は持つべきもので、わが子ほどありがたいものはないということ。
元も子も失う(もともこもうしなう)
何もかも失うようす。「元」は元金、「子」は利子でそのどちらも失う意から。
世の中は年中三月常月夜、嬶十七俺二十、負わず借らずに子三人(よのなかはねんじゅうさんがつじょうつきよ、かかあじゅうしちおれはたち、おわずからずにこさんにん)
世の中は、いつも三月頃の温暖な気候で、夜は明るい月夜、妻は十七歳自分は二十歳、責任も借金もなく、子どもは三人持つ暮らしが望ましいということ。江戸時代の庶民のささやかな願望をいった言葉。
夜鶴子を思う(よるのつるこをおもう)
子を思う親の情愛が深いことのたとえ。 「雉」はきじのこと。 雉は野を焼かれたら危険を顧みずに巣にいる子どもを助けに戻り、鶴は霜の降りる寒い夜には自分の羽を広げて子を暖めるとの意から。 単に「焼け野の雉」「夜の鶴」、また「夜鶴子を思う」「子を思う夜の鶴」ともいう。 「焼け野の雉」は、身を隠すところのない雉のことから、危険にさらされることのたとえとしてもいわれる。
律義者の子沢山(りちぎもののこだくさん)
律義者は、品行方正で家庭円満なので、夫婦仲もよく子どもが多く生まれるということ。
竜と心得た蛙子(りゅうとこころえたかえるこ)
子どもに対する親の見込み違いのたとえ。 将来は竜になると期待していたわが子も、やはり蛙の子にすぎなかったとの意から。
梁上の君子(りょうじょうのくんし)
泥棒のこと。または鼠のこと。中国の後漢の陳寔が梁の上に潜む賊を指して、悪い習慣が身に付くと梁の上の君子のようになると子ども達を戒めたという故事による。
矮子の看戯(わいしのかんぎ)
見識がないことのたとえ。また、周りの意見に簡単に同調することのたとえ。 「矮子」は、背の低い人。「看戯」は芝居を観ること。 背が低く、舞台が見えていないのに、周りの批評を聞いて同調することから。
矮子の観場(わいしのかんじょう)
見識がないことのたとえ。また、周りの意見に簡単に同調することのたとえ。 「矮子」は、背の低い人。「看戯」は芝居を観ること。 背が低く、舞台が見えていないのに、周りの批評を聞いて同調することから。
我が子自慢は親の常(わがこじまんはおやのつね)
親は誰でも我が子を自慢したがるということ。
悪い親も良い子を望む(わるいおやもよいこをのぞむ)
どんな悪人でも、我が子は良い人間であってほしいと望むということ。